データをデジタル方式で記録する初めての一般向けカメラは、1988年に富士フイルムから発表された「FUJIX DS-1P」というカメラだそうですが、これは一般に販売されることはなかったとのことです。
2年後の1990年、アメリカのDycam社から「Dycam Model 1」というデジタルカメラが発表され、これが市販品として初めてのデジタルカメラと言われているようです。
以来、35年以上が経過し、デジタルカメラは驚くべき進化を遂げてきました。フィルムの出荷量がピークだったと言われているのが2000年、そこからフィルムの出荷量は年々減少していくことになったわけですから、Dycam Model 1 の発売からわずか10年でフィルム市場を駆逐し始めたということになります。驚くべきスピードです。
カメラがフィルム方式からデジタル方式に変わることでフィルムの需要が減少し、いまやフィルムは風前の灯火といった状況になっているのは言うまでもありません。また、それ以外にも変化したものがいくつもありますが、中でも撮影した写真の鑑賞の仕方というのが大きく変わったと思っています。
かつて、写真といえばプリントしたものを見るのが当たり前のスタイルで、最も多くの人が使っていたカラーネガフィルムは、1本のフィルムを撮り終えると街の写真屋さんとかラボに持ち込んで、そこで現像してもらっていました。そして、同時プリントと呼ばれるサービスによってサービス判とかL判とよばれるハガキよりも二回りほど小さな紙にプリントしたものがフィルムと一緒に手渡されてきました。撮影済みのコマであればうまく撮れていようがピンボケであろうがもれなくプリントされてしまい、1枚数十円という対価を支払う羽目になり、ちょっと恨めしく思った経験のある方も少なくないのではないかと思います。
プリントされた中からピンボケなどの失敗作を取り除き、そこそこ撮れているものはアルバムなどに貼って鑑賞するということを多くの人が行なっていたと思います。
厚手の台紙でつくられた立派なアルバムに貼ることもあれば、当時流行っていたポケットアルバムとよばれる手軽なものに挿入するだけということもありましたが、いずれにしてもプリントされた写真をそれぞれの方法で保管し、それを鑑賞するというスタイルには変わりがありませんでした。
また、お気に入りの写真は四切とか半切、あるいは全紙などに引き伸ばしをして、額に入れたりパネル張りしたりして、部屋の壁にかけて鑑賞するというようなことをしていた人も多いはずです。フィルム写真全盛の当時は、「四切にプリントする」ではなく、「四切に引き伸ばす」という表現をしていました。小さなネガから大きな印画紙に光をあててアナログ的に焼き付ける、まさに「引き伸ばす」という行為を的確に表現した言い方でした。
ところが、デジタルカメラの普及とともにこうしたスタイルは徐々に形を変えていくことになります。
撮影した写真はフィルムではなく、メモリーカードなどのデバイスにデジタルデータとして保存されるわけですから、当時、パソコンが各家庭に1台、あるいは数台という具合に浸透していたので、これらの機器を使って撮影した写真を見ることが出来るようになりました。
また、インターネットの発達に伴ってSNSというものが世の中に出現し、個人が撮影した写真をSNSに掲載して世界中の人に見てもらうということが誰でも簡単にできる時代になりました。
つまり、パソコンの中にデータを保存しておけば、いつでも写真を見ることが出来るわけで、それまでの物理的なアルバムと同じようなものがパソコンの中にあるわけです。そうなると、写真をプリントするという必要性がなくなるのは自明の理です。
フィルムの存亡が危ぶまれている昨今、若い人たちの間でフィルム写真に人気があるそうで、富士フイルムの「写ルンです」を使ったり、わざわざ中古のフィルムカメラを購入してフィルム写真を撮る人が増えているようです。
ところが、写真店やラボにフィルムを持ち込んで現像依頼をしても、写真はデータ化してもらうだけでプリントする人は少数派だということです。しかも、現像後のネガは要らないので処分してほしいということで、データだけを持って帰る人が多いのが実態のようです。写真データはスマホに入れて友人に見せたり送ったり、あるいはSNSにアップしたりという使い方なので、紙にプリントする必要がないということなのでしょう。
確かに写真がデジタル化されたことで昔では考えられないほど便利になったのも事実です。
撮影した写真をすぐにその場で見ることが出来る、思うような発色をしていない写真でもレタッチソフトなどで簡単にきれいな写真にできてしまう、他の人と共有するのもデータを送るだけ等々、写真の活用の幅は桁違いに大きくなっています。そして、これらのすべてにおいて、プリントをしなくても実現できるということです。というよりは、プリントではないからこそ実現できる、と言った方が正しいかも知れません。
一方で、プリントすることが原則のようになっているケースもあります。
例えば写真展。展示してある写真はすべて額装してあるかパネル張りしてあります。今の時代ですから、撮影に使用した機材はデジタルカメラということが圧倒的に多いのですが、必ずプリントされています。壁にLEDモニタなり液晶モニタが掛けてあり、そこに写真が映し出されている写真展というのは見たことがありません。せいぜい、入り口付近に説明用としてモニタが掛けられている程度です。もし、モニタに表示された写真展があったとしたら、私なんかは興ざめして早々に退出してしまうのではないかと思います。
また、私が所属している写真の団体でも、定例会やコンテストなどに提出する写真はプリントしたものと決められています。講義の際、写真を映すためにモニタが使われることはあっても、評価用とか展示用にモニタが使われることはありません。
では何故、写真展などでは必ずプリントしたものを使うのか、実は私自身も本当に納得できる説明を持ち合わせていません。
少し調べると、モニタ表示と紙にプリントした写真の違いは透過光と反射光の違いだとか、モニタの表面は非常に滑らかだが紙の場合は細かな凹凸があるからだとか、そもそも解像度が違うからだとか、様々な説明がされています。透過光と反射光の違いも表面の滑らかさの違いも異を唱えるつもりはありませんが、それらの違いが見る側にどのような影響を及ぼすのか、それは何故なのかというところが私にはよくわからないのです。
誤解のないように申し添えておきますが、私は決して写真のプリント否定派というわけではありません。むしろその逆で、私自身はプリント派だと思っています。
このサイトでも何度も触れているように、私が使っているのはもっぱらフィルムカメラです。フィルムで撮影したからデジタル化には無縁かというとそんなことはなく、ブログに掲載する写真はデジタル化しなければならないのでスキャナで読み込んでパソコンで処理しています。
また、私はモノクロ写真は自分で現像から焼き付けまで行なうのですが、メインで使っているカラーリバーサルフィルムはデジタル化しなければプリントできない時代になってしまいました。かつてはダイレクトプリントというサービスがあり、ポジ原版から直接印画紙に焼き付けてもらえたのですが、2012年ごろに相次いでそのサービスが終了してしまい、今やラボに依頼してもポジをスキャナで読み込んでプリントするという方式になってしまいました。
このように、今やデジタルの力を借りなければ写真のプリントはできないケースもあるのが実情ですが、私は自分で撮影した写真の中からお気に入りのものを選び、モノクロであれば昔ながらの方式で印画紙に焼き付けをしたり、カラーであれば自分でスキャンしてプリントしたりラボに依頼したりして、それらを額装してあちこちに掛けています。
また、すべてというわけにはいきませんが、はがきサイズにプリントしているものもかなりの枚数になります。これらは壁にかけて鑑賞するという目的ではなく、写真を選別するためのものです。
先ほど、写真をプリントする本質的な理由が自分でもよくわかっていないと書きました。それは偽りのないことなのですが、同じ写真を四切などにプリントしたものと、モニタにほぼ同じ大きさになるように表示したものを並べてみた場合、明らかに写真から受ける印象が違います。モニタに目を近づければピクセル(ドット)が見えてしまうので、それが肉眼では識別できない距離で見た場合でも明らかに違います。うまく説明できないのですが、写真の奥行き感というか、立体感のようなものが全く違います。もちろん、プリントした写真の方が奥行き感とか立体感があり、奥のものは奥にあるように感じられ、手前のものは近くにあるように、紙の表面から盛り上がっているように感じられます。
こうして比較すると、モニタに表示した写真はなんだかとても薄っぺらい感じに見えてしまいます。これはレタッチソフトなどを使ってどんなに加工しても全く及びません。
また、モニタに表示された写真は見る角度や位置を変えてもほとんど変わることなく同じように見えますが、プリントした写真は見る位置を変えるとそれに伴って見え方も変わるように感じます。つまり、自分が右に移動すれば被写体を右側から見たように、左に移動すれば左側から見たように感じられるということです。写真は平面ですから実際にそんなことは起こりうるはずもないのですが、自分が移動することで目に入る反射光が微妙に変化するのでそう感じるのかも知れません。透過光と反射光による違いというのはこのことを言っているのかもと思ったりもしますが、私の稚拙な頭ではうまく説明ができません。
そして、決定的に違うのが黒の出方、発色の違いです。
プリントしたものは、かつてのダイレクトプリントには遠く及ばないにしても、それなりに黒は黒として表現されていますが、モニタに表示された方は黒という色が存在していません。原版に黒が存在していても、モニタ上ではそれが再現できていないという感じで、これは写真から重みというものが損なわれてしまっているように思います。
さらに、モノクロ写真の場合、暗室にこもって印画紙に焼き付けて生じる黒は、どんなに高価なプリンタにも勝っており、引き締まった像を得ることが出来ます。
写真展に行かれたことがある方はお分かりになると思いますが、写真は四切や半切、全紙などに、最近であればA4とかA3とかにプリントして展示されています。写真の大きさにもよりますが、鑑賞する際はある程度離れた距離から見ることが多いと思いますが、ちょっと気になったところがあったりすると写真にぐっと近寄って見ることがあります。当然、近づいてみれば細部までしっかりと見えるわけです。ところがモニタの場合は、いくら近寄ったところで細部が見えてくることはなく、モニタのピクセルが見えてくるだけです。
これは明らかに解像度の違いということなのでしょう。
仮に、技術が進歩してモニタのピクセルが肉眼で識別できないほど極小化したとしたら、この違いはなくなるのかも知れません。
このように両者を比較してみると、同じ写真であってもずいぶん違って見えるものだということがわかります。プリントした写真が良くてモニタ表示がダメ、あるいはその逆というように単純に片づけられるものではなく、それぞれの用途というか目的の違いのようなものがあるわけで、それを使い分けるというのは重要なことだと思います。
例えば、写真の使用目的がSNSなどへのアップだけということであれば、プリントするよりもモニタ上でよりよく見えた方がずっと効果的なわけです。あえてプリントする必要性はないと思われます。透過光と反射光の違いということとも共通することですが、RGBとYMCKの違いですから全く同じように見えること自体が無理なわけです。
しかし、本来写真というのは上手いとかヘタという前に、撮影者の想いとか意図が込められたものであり、その人が作り上げた作品とも言えるものです。シャッターを押した瞬間の想いが写真に表現されているかどうか、それを確認するためにはモニタに表示するだけでは不十分で、やはりプリントしてみる必要があると私は感じています。それもある程度大きなサイズ、最低でも四切くらいの大きさが必要だと思っています。
理想を言えば、私が使っているような民生品のスキャナやプリンタではなく、業務用の機器を揃えているラボに依頼をしてしっかりしたプリントをしてもらうのが望ましいのですが、コスト的な問題もあってすべてをラボに依頼するのも困難です。
ですが、民生機器によるプリントだとしても、実際に紙に出力された写真にはモニタ表示とは比べ物にならないくらいの情報量があるし、うまく言えませんが写真そのものに厚みというか重みのようなものが感じられます。
そして、モニタに表示された画像はパッと見ただけですぐに次、という感じでしか見ないのですが、紙にプリントした写真はじっくりと見てしまいます。なぜそうなるのかはよくわからないのですが、じっくりと見るということは大切なことだと思っています。撮影の際に抱いた想いや作画意図を思い浮かべながら写真と対峙する、そういう時間を持つことが「写真」という一連のプロセスの中においてかけがえのない価値ある振舞いだというのが私の持論です。
モニタに表示した場合は拡大表示してピントが甘いとか、フリンジが出ているとか、つい、そういうチェックに重きを置いてしまいがちで、それは「画像」を見ているに過ぎず、「写真」を見ているのではないと思っています。つまり、「画像」ではなく「写真」と向き合うということが大切で、そのためにも紙にプリントするという行為が欠かせないと感じています。
紙にプリントといってもコピー用紙のような普通紙ではなく、写真専用紙ですから厚みもあり、枚数が増えてくるとそれなりに場所も取ります。デジタルデータのようにメモリカードやハードディスクの中に何百枚、何千枚も保存というようなわけにはいきませんし、年数が経てば劣化もします。そして、何よりもコストがかかります。
ですが、それらを差し引いても、写真をプリントすることで写真と対峙する、写真と会話することによって得るものは大きいと思っています。
まさに、プリントしてこそ「写真」ということです。
蛇足ですが、大きなサイズにプリントして額装なりパネルなりにした写真はとても立派に見えます。何だか自分が撮った写真ではないように思えてくるから不思議です。
(2026.7.1)
