以前、第99話と第100話で写真にタイトルをつけるということについて触れたことがあります。その中で、写真はタイトルをつけて完成するという持論を私は持っているということも書きました。また、私は自然風景や花を主な被写体にしているということにも触れ、あくまでも私流ではありますが、どのようにタイトルをつけているかということもご紹介させていただきました。もし、ご興味のある方は下記のページをご覧ください。
「第99話 写真にタイトルをつける(1) タイトルがもたらす効果」
「第100話 写真にタイトルをつける(2) タイトルをつけるときの視点」
第100話で、主に風景写真や花の写真を対象にタイトルをつける手法の一つとして、「主題からタイトルつける」ということに言及していますが、これは私がタイトルをつける際にもっとも多く使っている方法で、今回はこれをさらにブレークダウンしてみたいと思います。
主題をどうとらえるかはその人の感性によるところが大きいと思うので千差万別といった感じもしますし、私自身も明確に定義できているわけでもありませんが、その中から私にとって使用頻度の高い5項目に絞ってご紹介します。
誤解のないようあらかじめお断りしておきますが、あくまでも私流のやり方であって世間一般に通用していることを保証するものではありません。また、スナップ写真などには当てはまらない場合も多いと思いますので、それらの点についてご承知おきください。
タイトルのつけ方に決まりのようなものがあるわけではなく、その人なりに自由な方法でやるべきだと思っていますが、私はこんな方法でやっていますということのご紹介程度と受け止めていただければと思います。
その1:自然の摂理や営み、環境などを主題としたタイトル
自然風景を対象に撮影に臨んでいると、自然界のふるまいのようなものに気づいたり驚いたり、あるいは感動したりすることがあります。それらはあたりまえ過ぎて普段は気がつかなかったり、自然界の時間軸がゆっくりであるがゆえに認識できなかったり、理由は様々ですが、ふとした時にそれらを感じたり気づいたりすると、人知の及ばない大自然の偉大さとか不思議さというものに接したような気持ちになります。
自然の摂理というようなものであったり、何億年、何十億年という悠遠に繰り返されてきた営みであったり、そういったものを感じたとしたら、それはその場所を撮影し、写真にする際の主題となりうると思います。
端正な姿の富士山や連なる山並み、きらめく海原などは美しい写真として仕上げることはそれほど難しくはありませんが、美しいだけで終わってしまっては少々もったいないわけで、その美しい景色の中に自然の摂理や大自然の営みといったものを感じ取り、それをタイトルにするだけで写真の持つ重みはずいぶん変わってくると思っています。
下の写真はニッコウキスゲの大群落で有名な夏の信州霧ケ峰高原で撮影したものです。東の稜線から太陽が昇ってきて、半分ほど顔を出したタイミングでシャッターを切りました。ニッコウキスゲをはじめ、たくさんの花が咲いているお花畑越しの朝陽を撮ったものです。
この写真につけたタイトルは「約束の光」です。
朝陽で東の空や雲が赤く染まったり、太陽の周囲に光輪のようなものが見えたりといった光景は理屈なく美しいのですが、それよりもここで感じたのは、前日の夕方に西の空に沈んだ太陽が、翌朝になって東の空から昇ってくるという宇宙の営み、しかも何十億年も繰り返し行われてきたであろう雄大さと不思議さのようなものです。そして、毎朝、1億5千万キロを旅して届けられる太陽の光と熱、それらを全身で受けて育つ植物たち、そういったものを表現できればという思いでつけたタイトルです。
そのため、ニッコウキスゲなどの花たちはあえてシルエット気味にしていますが、ピントはこれらの花たちに合わせており、遠くの稜線はわずかにピントから外れています。
また、この写真のタイトルを「霧ケ峰曙光」とか「朝焼けに染まる」とかにしてしまうと、何だかとてもチープな感じになってしまい、主題は「爽やかな高原の朝」といったところがせいぜいだと思います。
その2:人々の想いや願いなどを主題としたタイトル
人間の営みと自然とは切っても切り離すことのできないもので、太古の昔から人間は自然とうまく共存してきたと言われています。近年はそういったものが崩れつつあるのかもしれませんが、それはともかく、自然を崇拝したり畏敬の念を持つということはわれわれ人間の根底にあるのだと思います。日本古来の神道は特定の開祖がいたり教義を持ったりしているわけではなく、自然界に存在する山や木、岩などあらゆるものに神が宿るという考え方だと言われていますが、まさに人間と自然が奥深いところでつながっているということに他ならないのではないかと思います。
また、自然の景色を見ることによって過去の記憶が呼び戻されたりすることもあるでしょうし、大自然に抱かれることで心の安らぎを覚えたりすることもあると思いますが、こういったことも人間と自然のつながりの証であると思います。
われわれ人間は無意識のうちに自然をよりどころにしたり依存したりしているのかも知れません。
自然風景を撮影しているとそういった場所に出会うことも少なくありません。ご神木や磐座、あるいは水神などは代表的な例ですが、注連縄などで祀っていなくても巨木や巨岩、湧水を崇めたり、山や森全体を神域としている場所はたくさんあります。そして、そういった場所は特に地元の方にとっては神聖な場所であり、昔から大切にされてきた場所でもあります。
このように、人々の心と自然との繋がりを主題にして、それをタイトルにするというのも効果的だと思っています。
例えば下の写真、立派な染井吉野桜が満開になっている光景ですが、桜の木の下に百庚申があります。百庚申というのは、昔から村の安全や村人の幸せを願って建てた庚申塔が増えていって百基になったものを指すそうで、昔の人の願いが込められた場所ということだと思います。
この写真には「薄紅(うすくれない)の祈り」というタイトルをつけました。
立派な桜なのでそれだけでも美しい景色になるのですが、たくさん並んでいる庚申塔に覆いかぶさるように見える位置から撮影しています。ここにこの桜が植えられたのがいつ頃なのかはわかりませんが、たぶん、庚申塔を見守るように咲いてほしいという昔の人々の願いが込められた桜ではないかと思っています。
今は訪れる人もほとんどいないようですが、庚申塔や桜に込められた祈りのようなものを表現できればとの思いからつけたタイトルです。いうまでもなくこの写真の主題は満開の桜でもなく百庚申でもなく、人々の祈りや願いということになります。
なお、タイトルの「薄紅」に読み仮名をつけたのは「うすべに」と読まれたくなかったからです。「うすべに」と「うすくれない」ではずいぶん印象が異なります。
その3:植物や動物の生きざま、命の活動を主題としたタイトル
自然界にはたくさんの植物が自生しており、その環境の下で昆虫や動物なども生息しているわけで、人間の手が加わらない中で見事な調和を保ってそれぞれが生きています。むしろ、それらを破壊しているのが人間かも知れません。
私は動物や昆虫を撮ることはほとんどありませんが、自然界で生きている植物を撮る頻度はかなり多いです。植物の生きている時間軸は人間やその他の動物に比べるとかなりゆっくりで、変化している様子を肉眼で認識するのはまず困難です。ある時間をおいてみたときに、前回との差が感じられるというのが精一杯といったところです。
一見、動きが感じられない植物ですが、確実に命をつなぐ活動をしているということを感じることがあります。植物は花を咲かせたり実をつけたり、あるいは紅葉したりと、季節によって人間の眼を引く姿を見せてくれたりもしますが、そういった華やかな面だけでなく、何気ないところにも命の息吹があって、植物の逞しさとか生命の神秘といったようなものを垣間見たりします。
そういった点では動物の方がわかり易いのかもしれませんが、動物であれ植物であれ、それらの生きざまとか命をつなぐ活動とか、そういったものを主題として撮るというのが私は好きです。
どういったところに生命観のようなものを感じるかは人によっても異なるであろうし、意識して見るのと無意識に見るのとでは当然見え方が変わってきますが、命が息づいているということを表現できる写真が撮れればと常々思っています。
下の写真は苔むした倒木の間から芽を出してきたハイイヌガヤです。
ハイイヌガヤはイチイ科の常緑樹ですが成長が非常に遅いらしく、しかも、背丈は1~2mほどにしかならない低木です。また、多雪地帯に育成するため、冬は何か月も雪の下に埋もれてしまいます。
上の写真の左下に黄緑色した小さなハイイヌガヤがありますが、昨年、もしくは今年に芽を出したものと思われます。この小さな芽が隣にあるハイイヌガヤくらいまで育つのには何年かかるのかわかりませんが、我々の時間軸からすると止まっているのではないかと思えるほどゆっくりとした速度です。
それでも、この小さな新芽はこの先もこの場所で少しずつ少しずつ育っていくであろうし、そうした植物の力強さや逞しさ、命の鼓動のようなものを感じます。
この写真につけたタイトルは「静かな鼓動」です。
もちろん、我々人間の心臓のように鼓動など聞こえるはずもありませんが、確実に生きて呼吸をしており、我々にはわからないとてもゆっくりとした速度で成長しているはずであり、それを主題としてつけたタイトルです。
単に渓流沿いの景色としてとらえるだけでなく、そこにある植物たちのドラマのようなものを伝えられればという思いです。
その4:その場の雰囲気や感じるものを主題としたタイトル
基本的に写真というのは光を記録するわけですが、実際に被写体が存在している場所には光だけでなく、音や熱や匂いであったり、風などのように触覚に訴えるものがあったりします。これらの要素は物理的に写真に写し込むことはできないわけです。
しかし、目に見えるもの以上に心を揺さぶるもの、感性に訴えかけるものがあることも少なくありません。満開のお花畑のようなところにいれば花の香りが漂っているかも知れないし、きれいな水が流れている渓流では心地よい水音がしているかも知れません。そういった視覚以外の感覚で受ける要素が加わることで、目の前に広がる景色や被写体というのは全く別物のように感じられるわけです。それは、実際にその場に身を置いた人でなければ本当には理解しえない感覚です。
このように、当事者であるからこそ得ることのできるその場における感覚であったり雰囲気であったり、そういうものを主題としてタイトルにし、伝えるというものです。
例えば、澄んだ青空と満開の菜の花畑が広がっている清々しい春の景色を写した下の写真、これを美しい春の景色というだけで終わらせてしまうのではなく、そこに撮影者しか知りえない視覚以外の感覚で得た情報を加えるということです。
この写真につけたタイトルは「光風渡る丘」です。
光風というのは晴れた春の日に爽やかに吹く風のことで、太陽の光が草木などを輝かせ、そこを通り抜けてくる爽やかな風を指すと言われています。草や木々の葉を揺らすビュービューと吹く強い風ではなく、肌に感じるくらいの優しい風といったところでしょうか。花も木の枝も揺れていないので、このような風を一枚の写真だけで伝えるのは困難です。
この写真では澄み渡った青空や満開の菜の花の美しさもさることながら、爽やかな風が吹く清々しくて気持ちの良いこの場所、この空間というものを伝えたいという意図から、青空とか菜の花とか春という単語は含めずにつけたタイトルです。青空や菜の花ということはあえて言わずとも見ればわかることですから、それらも含めて撮り手が感じたことを主題にし、タイトルとして表現しています。
その5:自然現象や事象を主題としたタイトル
これは、「その1」で書いた自然の摂理や営みと似ているように思われるかもしれませんが少しニュアンスが異なっていて、光や風、あるいは音など、自然がある瞬間に見せてくれる表情と言ったらよいのかも知れません。平たく言うと、太陽の光があたって花や葉っぱが輝いたとか、風が吹いて木の葉が揺れたとか、水面に水滴が落ちて波紋が広がったとか等々、挙げたらきりがないほど自然界は多様な表情を見せてくれます。
このような瞬間の、あるいは短い時間に生じる現象や事象というのは広い範囲にわたって生じることもあれば、ごく限られた狭い範囲にだけ生じることもありますが、それらを主題としてとらえようというものです。
これらの現象や事象は怪奇現象のようなミステリアスなものでない限り、写真という一枚の静止画を見ただけで理解できることが多いと思います。ですので、発生している現象や事象をそのままタイトルにするのではなく、そこから撮り手が何を感じ取ったかということを表現することが必要だと思っています。
下の写真は紅葉した数枚のカエデの葉っぱに太陽の光があたってオレンジ色に輝いているところを撮ったものです。
木漏れ日が数枚の葉っぱに差し込んでいる状態というのは写真を見ただけですぐにわかると思います。画の大半を黒色が占めているので、大きな木の下あたりで撮影したであろうことも想像に難くありません。
この写真に例えば「木漏れ日」とか「輝く紅葉」とかというタイトルをつけても、それは見ればわかるといった感じであまりパッとしません。
そこで、この写真には「光の通り路」というタイトルをつけました。
上の方にある葉っぱの隙間から入ってきた光がまっすぐ地上に向かって降りてくる、偶然その途中にあった数枚の葉っぱにあたってオレンジ色に輝くという現象が出現した、目に見えない光の通り路が紅葉によって浮かび上がったという主題です。
言うまでもなく主被写体は紅葉したカエデですが、表現したかったのは光です。
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写真にタイトルをつけようがつけまいが写真そのものが何ら変わるわけではありません。ですが、タイトルがあることで写真の見方、受け取り方が変化するのも事実です。
また、冒頭でも触れたように、タイトルのつけ方にルールや決まりのようなものがあるわけではなく自由につければ良いと思っていますが、せっかくつけるのであれば効果的なタイトルの方が望ましいのは言うまでもありません。
今回は写真の主題に基づいたタイトルという範囲に絞っていますが、主題が明確であればタイトルをつけることはそれほど手間のかかることではないと思っています。ただし、主題をそのままタイトルにするのではなく、それを別の言葉やフレーズで表現するひと工夫が必要だと思います。いい表現が思いつき、気の利いたタイトルをつけられたときは自分の写真もちょっと違って見えてくるから不思議なものです。
(2026.7.26)
