写真というのは言うまでもなく、ある瞬間の状態を写し取ったものです。厳密にいうと瞬間ではなく、ごく短い時間における状態の変化を重ね合わせて記録されたものというのが正しいのかも知れませんが、何秒とか何分というような長い時間、露光した場合を除けば、ある瞬間といってもそれほど違和感はないと思います。当然、写真そのものには動きはありません。あるのは露光している間に動いたものが軌跡として記録されたものだけです。
そんな静止画としての写真ですが、私は1枚の写真の中にもストーリー(物語)が存在していると思っています。もちろん、ストーリー性の度合いというものは写真によって異なり、強いストーリー性を感じる写真もあればあまり感じない写真もありますが、どんな写真であっても何某かのストーリーは存在するというのが私の持論です。
そして、そのストーリーにも大きく分けて2種類が存在すると思っていて、写真が撮影された瞬間を現在とすると、一つは過去から現在に至るまでのストーリー、もう一つが現在から未来にかけてのストーリーです。
過去から現在に至るまでのストーリーというのは、いま写真に写っている状態が作り上げられるまでに実際に起きたであろう史実に基づくもので、ヒストリー(history)ともいえるものです。実際にその史実を目にしたわけではないのでそれが事実かどうかはわかりませんが、その状態になるまでの経緯のようなものが情景として浮かんできます。ドキュメンタリーと言ってもよいのかも知れません。
もう一つの現在から未来にかけてのストーリーは、この先に起こるであろう事態に対するものであり、想像とか空想に基づくものでテイル(tale)というべき性質のものです。先のことは誰にもわかりませんが、今の状況からこの先こうなるのではないかという想像の世界、空想の物語です。
例えばこの写真。
渓流の中にある苔むした岩の上に落ちたカエデの葉っぱを撮ったものです。落ちてからしばらく時間が経っているのか、葉っぱは少々痛みかけており、先の方は水につかっています。
この写真の過去から現在に至るストーリー、つまりヒストリーに思いを馳せると、近くに黄葉したカエデの大木があり、風が吹くたびに梢から離れた葉っぱが舞い落ちていくという情景が浮かびます。地面に落ちるものもあれば川中に落ちて流れて行ってしまうものもある中で、たまたまこの一葉が岩の上に舞い落ちたという物語が生まれます。
しかし、実際にその過程を見ていたわけではないので事実とは違うかもしれませんが、この状態を見た時のその人なりに描いた物語です。ですが、この状態が存在していることは紛れもない事実であり、ここに至るまでの何らかの出来事があったことも間違いのないことです。つまり、この状態になるまでのヒストリーが存在していたということになります。
一方、この葉っぱはこの先どうなっていくのだろう、ということについても想像が膨らみます。
雨が降って水かさが増せば、あるいは強い風が吹けば、この葉っぱは流れの中に落ちて流されて行ってしまうのだろうと。そして、いずれは水中に沈んで朽ちていくという想像のストーリー、すなわちテイルが生まれます。まだ起きていないことなのですべてが想像の世界ですが、やがて起きるであろうことを、これを見た人がその人なりに作る物語です。
このように、一枚の写真を見てストーリーを思い描くのは、写真を見た人の感性によるものなので、どのようなストーリーを描くかは十人十色です。また、ストーリーを感じる度合いも人それぞれですが、程度の差はあれ、そこから感じるものがあることは事実ではないかと思います。
ここでは風景写真を例にとりましたが、このようなストーリー性はスナップ写真でもポートレートでも、静物写真でも感じられるものだろうと思います。特にスナップ写真の場合はその傾向が強いと感じています。それは人の営みが想像できるからかも知れません。
また、無機質なものを写した静物写真にもストーリー性は存在するのかというと、スナップ写真ほどではないにしても感じるものがあると思っています。
どんな写真にもストーリー性は存在するという私なりの持論は上でも書いた通りですが、それは風景写真やスナップ写真などというカテゴリーに加えて、写真の撮り方にも大きく左右されると思っています。簡単に言うと、同じ被写体を撮影してもその写真を構成する要素によってストーリー性は大きく変わってしまうということです。
また、常にヒストリーとテイルの両方が感じられるかというと必ずしもそうではなく、どちらか一方のみということもあると思います。
例えば上の写真で、カメラを左に振って苔むした岩が画面の大半を占めるような作画をしたとすると、過去から現在に至るヒストリーという物語は感じられても、これから先のテイルという物語は希薄になってしまうと思います。
写真に存在するストーリー性というのは物理的なものでも絶対的なものでもありません。ということは、写真に存在するというよりは、その写真によって見る人の心の中に物語を惹起させると言うほうが正しいかも知れません。写真にはそのトリガ(きっかけ)となるようなものが存在しているに過ぎないということです。
また、ストーリー性というのは必ずしもなくてはならないというような類いのものではないと思っていますが、ストーリー性があることで写真に奥深さが生まれてくるのも事実だと感じています。したがって、私の場合、撮影の段階において、撮り手の目線としてストーリー性が感じられるように撮りたいという思いが常にあります。撮り手である自分と同じようなストーリーを描いてもらえる保証はどこにもありませんが、見る人に物語を紡いでもらえたらという思いでしょうか。
私が主な被写体としている自然風景は、美しい景色のところに行けば美しい写真を撮ることはそう難しいことではありません。美しい景色であっても余計なものはフレームの中に入れないなどの気配りは必要ですが、仮にそういったことに無頓着に撮ったとしてもきれいなものはきれいに写ります。しかし、それだと単にきれいなだけの写真で終わってしまう可能性が高いと思っています。
だいぶ以前に撮影したものですが、例えば下の写真です。
澄み渡った空に冠雪した浅間山が映えて景色としては美しいのですが、この写真にストーリー性があるかというと、全くないわけではありませんがあまり多くの物語は感じられません。無理やり物語を作ろうとすればできなくはないのですが、無理に物語をこじつけても意味がありません。もっと自然に湧いてくるものが望ましいと思っています。
ストーリー性が希薄だと「きれい」だけの写真になりがちですが、ストーリー性があると頭の中でイメージがどんどん膨らんでいって、写真には写っていないにもかかわらず、たくさんの映像が見えてくるような気がします。
撮影段階においても、ストーリー性を感じている場合はそれが作画に反映されて、おのずと出来上がる写真にも違いが出るであろうと思われます。
このようにつらつらと考えてみると、ストーリー性というのは写真という静止画だからこそ意味を持っているようにも思えてきます。動画であればそれ自体がストーリーになっているわけで、そこに新たな物語が生まれる余地は少ないのではないかと思います。写真には動きがないからこそ、見る人に与えられた自由度は非常に大きいとも言えます。
写真の撮り方に決まったやり方はなく、その人なりの自由なやり方で撮影すればよいと思っていますが、私の場合はストーリー性を意識することで撮影の段階では被写体と対峙し、撮影後は出来上がった写真と会話をするという行為が生まれてきます。空想、妄想の世界、そして自己満足の世界かも知れませんが、私にとってはとても大切なことです。
また、他人が撮影した写真を見て、そこに物語を感じるとそれはそれでとても楽しいものです。写真展などに行った際、数秒で通り過ぎてしまう写真と、何分も立ち止まって見る写真とがありますが、これなどは典型的な例で、写真の前で何分も立ち止まって見ているとき、私の頭の中には物語が紡がれています。
同じ写真であってもそこから紡がれる物語は人それぞれで、時おり、そういったことで会話をするとなるほどと思うことも多く、写真の奥深さを感じます。
物語に浸ってばかりいると撮影に時間がかかり、撮影効率が著しく低下するのですが、それもまた良しというところでしょうか。
(2025.2.9)