近年のAI技術の進歩は目覚ましいものがあり、巷にはAIが生成した画像や動画が溢れています。人物画像や動画もビックリするほど良くできていて、まだ多少の不自然さはあるものの、それらが解消されるのも時間の問題だと思います。1年後には本当の写真や動画なのか、それともAIによる生成されたものなのか、判別できなくなるのではないかと思えます。
AIによる画像生成は人物だけにとどまらず、様々なカテゴリーで行われていて、私が主に被写体としている自然風景でもAIによる生成画像がたくさん存在しています。そして、今後、その数は急速に増えていくだろうと思われます。
生成AIの技術が進歩すれば、それを様々な分野で活用しようとする動きになるのは当たり前のことです。今まで実現できなかったことが実現可能になることもたくさんあるでしょうから、様々な分野に応用して有効に活用していくということはとても価値のあることだと思います。
一方で、いわゆる「フェイク」というものがつくり出されてしまい、それによって様々な問題が生じることも事実ですが、そこに言及すると話しがどんどん拡散していってしまうので、ここではこれ以上触れないことにします。
人物にしても風景にしても、AIによる生成写真(画像)というのは、技術の進歩によって新たに生み出されたカテゴリーの一つだろうと思いますし、新しい表現方法、もしくは新たなアートといえるかも知れません。
しかし、AIの技術が進歩して、写真なのかAIによる生成画像なのか見分けがつかなくなった状態において、生成された画像をカメラで撮影した写真だと思い込んでしまうことは多分にあるわけで、そうなったとき、写真の価値はどうなってしまうのだろうと思ったりもします。
例えば、山頂に朝日を戴いた富士山が湖面に写ることで有名な田貫湖のダイヤモンド富士は、年に2回しか見られない光景です。しかも、きれいに見られるかどうかはお天気次第というわけですから、その2回も保証されているわけではありません。そして、この年に2回しかない光景を撮ろうと、田貫湖の湖岸には立錐の余地もないほど三脚が並びます。もしここで思うような写真が撮れなければ、次のチャンスは何か月後、もしくは一年後ということになってしまいます。
ところがAIであれば、パソコンの前に居ながらにしてダイヤモンド富士の画像を簡単につくり出してしまうことが出来るわけです。しかも、自分の思い通りの光景として仕上げることが出来ます。
こうして生成された画像が、あたかもカメラで写した写真として世の中に出回ってしまうとしたら、想像しただけでぞっとします。何の保証もされていない年2回のタイミングに時間とお金とエネルギーを注ぎ込んで生まれた写真と、パソコンでつくり出された画像とが、全く見分けがつかずに双方が存在しているとしたら、苦労して撮られた写真とはいったい何なんだということになります。
因みに、「湖面に映る富士山」というキーワード入れたら、AIがこんな画像を生成してくれました。
AIで生成されたものはその旨を明記するのが最低限のモラルだろうと思いますが、それが明記されていたとしても、見分けのつかない2つを並べられたときに、見る側にとってはその違いをどう判断したらよいのか、悩ましいところだと思います。
仮に、見分けのつかないこれら2つの商品が、カメラで撮影された写真には50,000円の値札が、AIで生成された画像には5,000円の値札がついていたとします。見た目が変わらないのであれば価格の安い方を選ぶ人もいれば、やっぱりカメラで撮影した方が良いと思う人もいると思います。どちらを選ぶかはその人の価値観によるところが大きいのではないかと思います。
では、AIの技術が進化して、カメラで撮影した写真と区別ができないようなものをつくり出せるようになったとしたら、カメラを持って出かけることをせずに、パソコンの前に座ってひたすらマウスを動かし続けるかというと、そう単純なことでもないと思います。その方が時間もお金もエネルギーもかからないとわかっていても、簡単に割り切れるものでなないように思います。少なくとも私には割り切りはできそうにありません。
カメラによって撮影された写真とAIによって生成された画像、見た目には区別がつかないとしてもそのプロセスには大きな違いがあります。私は、写真における「撮影」というプロセスがとても重要な意味を持っていると思っていて、それは最終的な写真を得るための単なる機械的な行為ではなく、被写体と向き合い、対話し、自分が伝えたいことをどう表現するか思い巡らし、そして記録する、という、とても崇高なことだと思っています。もっと平たく言えば、撮影という行為に価値を感じているということになります。
しかし、これも時代が進めば変わってくる可能性があります。
かつて、買い物といえば直接お店に出向いて商品を眼で見て購入するというのが当たり前でしたが、いまや家に居ながらにしてスマホやパソコンで商品を購入することが出来ます。お目当てのものを手に入れるという意味ではネットショッピングの方がはるかに便利で効率的ですが、買い物をするという行為が大きく様変わりしてしまっています。
今でも実店舗に出向いて直接購入するという行為に楽しみや価値を感じている方もいらっしゃると思いますが、やはり時代とともにそういったことに対する価値観も変わってくるのかもしれません。
ショッピングの場合は実店舗で買おうがネットショップで買おうが同じものが手に入るので、写真撮影の場合とは本質的なところで異なりますが、最終的に得られる成果に重きを置けば、そこまでのプロセスは変化していくのも自然な成り行きだと言えます。
ちょっと脱線しますが、さだまさしの作品の中に「関白失格」という曲があります。大ヒットした「関白宣言」という曲のその後を歌ったような感じでかかれていますが、この歌詞の中に「それからあれだぞ テレホンショッピング 買い物くらい 体動かせ」という件があります。食っちゃ寝している奥さんに向けて発した言葉ですが、妙にこれに似通っているなと感じて、思わず一人で笑ってしまいました。「撮影くらい 体動かせ」といった感じでしょうか。
AIの発達によって画像が生成される技術も進化するのは自然の成り行きですが、それによって写真がAIにとって代わられるというよりは、前の方でも書いたように新しい分野、カテゴリーの創出なんだろうと思います。
そして、AIによって画像が生成される時代になった今、写真とは何か、写真の価値とは何かということを否応なく考えさせられてしまいます。いずれ、AIにより生成されたものにはいろいろな規制がかかることになるでしょうが、そういう法的なこともさることながら、自分にとって写真とは何かということをあらためて見つめなおす機会のように思えます。もちろん、答えは一つではないし、100人いれば100通りの答えがあっても不思議ではありません。
私にとっては撮影という行為も含めての写真であって、写真が持つ記録という要素はとても重要です。その場に出向き、被写体と対峙し、いろいろなことを感じ取りながらフィルムに記録する、ありのままを写し込んだ1枚の写真は私にいろいろなことを語り掛けてくれます。いわば写真との対話、それは私にとってとても大事な時間だと思っています。
時代の流れや環境の変化などは好むと好まざるとにかかわらず訪れるものですが、それらを受け入れながら、自分のペースで自分の感性に合った写真とそのプロセスを追い続けていかれれば良いのかなと思う今日この頃です。
(2024.10.10)