AIが写真をつくる時代  写真とはいったい何なのか?

#写真観

大判写真と35mm判写真は何がどのように違うのか その2:画作りへの影響

 今から10ヶ月ほど前、2021年8月に同じタイトルのページを書きました。大判と35mm判とではフィルム面の大きさが異なることに起因するいくつかの違い(階調や被写界深度、ボケなど)について触れてみました。
 今回は前回とは少し違った視点、構図などの画作りという点から大判写真と35mm判写真の違いについて触れてみたいと思います。
 なお、構図や画作りというのは、階調や被写界深度などのような物理的な違いではなく、あくまでも個人的な主観によるものですので客観的な比較というわけにはいきません。あらかじめご承知おきください。

アスペクト比の違いによる構図決めへの影響

 大判フィルムと35mm判フィルムの違いは大きさ(面積)もさることながら、アスペクト比(縦横比)も大きく違います。一口に大判と言ってもサイズは何種類もありますが、ここでは現時点で一般的に手に入れることができる4×5判を対象にします。

 4×5判のフィルムを横位置にした時の縦横の比率は1:1.26(96mmx121m)です。
 これに対して35mmフィルムの場合は1:1.5(24mmx36mm)ですので、大判フィルムに比べるとかなり横長(縦に置いた場合は縦長)になります。大判フィルムに比べて長辺が約19%伸びていることになります。
 この値は結構大きくて、大判フィルムの左右両端がそれぞれ11.5mm、長くなった状態です。わかり易く図にすると下のようになります。

 このアスペクト比の違いが、撮影するうえでの画作りにものすごく大きな影響があると感じています。
 私が4×5判や中判の中でも67判を多用している理由は、フィルム面が大きいことによる画像の美しさもありますが、四切や半切、全紙などのアスペクト比に近いというのも大きな理由です。特別な意図や事情がない限り、撮影したものをできるだけ切り捨てず(トリミングせず)にプリントしたいというときに、アスペクト比が近いというのはとてもありがたいことです。
 最近ではA4とかA3というサイズが増えてきていて、これは35mm判フィルムのアスペクト比に近いので、フィルムにしてもデジタルにしても35mm判(フルサイズ)を使う場合にはその方が都合が良いわけです。

 そういった意味ではどちらが良いということではなく、慣れの問題と言えると思いますが、アスペクト比に対する慣れというのはとても重要なことだと思っています。

 上でも書いたように、横位置に構えた場合、4×5判に比べて35mm判の横方向は19%も長いわけですから、かなり広範囲に渡って画面に入り込んできます。縦(上下)方向を基準に4×5判のアスペクト比1:1.26の感覚で画面構成しようとすると、左右が広すぎて収まりがつかなくなってしまいます。
 逆に横(左右)方向を基準にすると上下が切り詰められたようで、とても窮屈な感じを受けます。

 例えば日の丸構図のように、主要被写体を画中央に配置した場合、4×5判だと左右の空間は上下のそれと比べて少し広い程度ですが、これが35mm判だと左右の空間がとても広くなります。そしてこれは主要被写体を中央に配した場合に限らず、三分割構図などのように左右のどちらかに寄せた場合でも同じで、反対側の空間が広くなりすぎて、うまく処理しないと余計なものが写り込んだり、無意味な空間ができたりしてしまいます。

 これは中判フィルムを使った69判の場合もアスペクト比が35mm判とほぼ同じなので、同様のことが起こります。

 一方、35mm判のアスペクト比で構成した画を4×5判のアスペクト比に収めると、左右がカットされて窮屈に感じたり、左右を切り詰めなければ上下が広くなりすぎ、締まりのない写真になってしまうと思います。

 実際に撮影した写真を例にとってみるとこんな感じになります。
 下の写真は奥入瀬渓流で撮影したものですが、4×5判のアスペクト比で画を構成したものです。

▲アスペクト比 1:1.26(4×5判相当)で撮影した場合

 これに対して、上下方向の範囲を変えずに35mm判のアスペクト比で撮影したのが下の写真です。

▲アスペクト比 1:1.5(35mm判相当)で撮影した場合

 どちらの写真が良いとか悪いとかではなく、また、好みもあると思いますが、写真から受ける印象がずいぶん違うということです。
 当然、左右が広い分だけ35mm判のアスペクト比の方が横の広がりを感じ、パースペクティブの影響で奥の方から流れてきているように見えます。広さや動きを表現したりするのに向いていますし、ダイナミックな画をつくることができます。
 一方、4×5判のアスペクト比の場合、横の広がりは抑えられてしまいますが、流れにボリューム感が生まれているように思います。
 ただし、この写真を例にとると、35mm判アスペクト比の場合は左右が広く写るので川の両岸、特に右岸(画面左側)の処理がうまくいってない印象を受けます。反対に、左右が広く取り入れられているので全体の様子がわかり易いと言えるかも知れません。

 こうして2枚を比べてみると、35mm判アスペクト比の場合は広がりや力強さを表現し易いフォーマットであるのに対して、4×5判アスペクト比の場合は全体に落ち着いた感じ、安定した感じを受けるフォーマットのように感じます。その分、35mm判アスペクト比の写真に比べる物足りなさを感じるかも知れません。
 ですが、いずれにしても、同じ場所を撮影してもアスペクト比によって写真から受ける印象はずいぶん異なるということです。
 このように、35mm判と4×5判の写真を比較すると、階調や被写界深度、ボケなどによる違いも大きいですが、アスペクト比の違いはフレーミングや構図の仕方にも影響を及ぼすので、数値では表せませんが非常に重要な要素であると思います。

 4×5判や67判で撮影していると、「もうちょっとだけ、横の広がりが欲しい」と思うこともありますが、決められたフォーマットの中にどう収めるかを考えるのも重要なプロセスかも知れません。

写真の四隅に対する気配りの違いによる影響

 フレーミングや構図を決めるというのは35mm判であろうが大判であろうが、撮影における欠かせないプロセスの一つですが、この際に、フォーカシングスクリーンの四隅に神経をいきわたらせる度合いが、大判カメラの方が大きいような気がしています。
 一般的に主要被写体は中央部、もしくは中央部付近に配置することが多く、極端に隅の方に配置することはそれほど多くありません。そのため、どうしても中央部周辺には意識が向きますが、周辺部、特に四隅には意識が向きにくいという傾向があるように思います。

 35mm判カメラの場合、一眼レフカメラにしてもレンジファインダーカメラにしても、ファインダーをのぞき込めば全体が容易に見渡せ、ピントの状態も一目でわかります。
 これに対して大判カメラの場合、特に短焦点レンズの場合はスクリーンの周辺部が暗くなってしまったり、肉眼だけでは正確なピントの状態がわからないなど、全体を一目で確認することが困難な場合が往々にしてあります。画面の周辺部に余計なものが写り込んではいないか、画全体のバランスを欠いていないか、ピントは大丈夫か等々、いろいろなことを気にしながらスクリーン全体を何度も見直しします。

 このような手間のかかるプロセスを経ることによって、結果的に大判カメラで撮影した方が四隅に神経が行き届いた写真になることが多いというのが私自身の実感です。
 もちろん、35mm判カメラでも四隅に注意を配ることはできますが、全体が容易に見渡せるがゆえに、大判カメラほどには気を配らずにシャッターを切ってしまうということがあるということです。

 周辺部に気を配らずに撮った写真を見ると、撮影時点では気がつかなかったものが写っていたり、余計な空間ができていたり、全体的に何となく締まりのない写真なってしまうことがあります。
 主要被写体さえしっかり写っていれば良しという考えもありかも知れませんが、やはり周辺部に締まりがないと主要被写体のインパクトも弱くなってしまいます。

 そしてこれは、前の節で書いた画作りとも密接な関係があると思っています。
 つまり、35mm判の方がアスペクト比が大きい分、中心部から四隅までの距離が長くなるわけで、そのため、より意識を向けないと四隅が甘くなってしまう可能性が高まってしまうということです。
 35mm判カメラと大判カメラの構造的な違いによって、大判カメラの方が周辺部に意識を向けざるを得なくなるということ、また、何しろフィルム代が高いので失敗は許されないという意識が働くのかも知れませんが、思いのほか、写真の出来には大きな影響を与えているように思います。

ピントとボケのコントロールによる影響

 大判カメラの大きな特徴はアオリが使えることですが、それによってピントを合わせたりぼかしたりということが自由にできます。
 35mm判の一眼レフや中判一眼レフのカメラやレンズは、ごく一部の製品を除いてはレンズの光軸が固定されています。これに対して大判カメラは、意図的に光軸をずらすことでピントのコントロールを自在に行なうことができます。

 代表的なのが風景撮影でよく使われるパンフォーカスですが、近景から遠景までピントが合った状態にすることができ、視覚的にとても気持ちの良い写真に仕上がります。
 また逆に、レンズの絞りを目いっぱい開いてもボケてくれないような状況でも、アオリを使うことで大きくぼかすこともできます。

 下の写真は福島県にある滝を撮ったものです。

▲Linhof MasterTechnika 45 FUJINON CM105mm F22 16s ND8使用

 アオリを使って撮影してるため、川の中にある足元の石から奥の滝まで、ほぼパンフォーカスの状態です。

 焦点距離105mmのレンズを使い、絞りはF22で撮影していますが、絞り込んだだけではここまでパンフォーカスにはなりません。
 このようにピントやボケをコントロールすることで、35mm判カメラで撮影したものとは雰囲気の異なった写真にすることができます。

 また、ボケをコントロールすることで主要被写体を浮かび上がらせたり、写ってほしくないのだけれど画の構成上、どうしても入ってしまうものをぼかすことで目立たなくしてしまう、というようなこともできます。

 いまはレタッチソフトでかなりの加工がきてしまうので、ボケのコントロールもパソコン上で自由自在といったところですが、フォーカシングスクリーン上で意図したボケの状態を作り出す面白さというのが大判カメラにはあると思います。

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 今回触れた三つの違いのうち、アスペクト比に起因する画作りの違いと、画の四隅に対する気配りの違いというのは物理的なものではないので、撮影の時点で注意をすれば大判カメラであろうと35mm判カメラであろうと同じような状態にすることができます。ですが、やはりアスペクト比に対する慣れというものは影響力が大きく、わかってはいても不慣れなアスペクト比ではなかなか思うように撮れないことも多いというのが正直なところです。
 フィルムフォーマットに縛られてしまうと本末転倒ですが、フィルムフォーマットを活かした画作りは意識すべきことだと思います。

(2022.7.1)

#アオリ #写真観 #構図

美しい風景なのに、撮影したらとってもつまらない写真に...

 私がリバーサルフィルムを多用している理由は、何と言っても色の再現性というか、美しい発色によるところが大きいです。もちろん、肉眼で見たのとまったく同じ色合いになるわけではなく、そのフィルムなりの特性があるわけですが、ポジ原版を見た時の美しさは格別のものがあります。

 今から十数年前に製造を終了してしまいましたが、コダック社製の「コダクローム」というリバーサルフィルムがありました。発色現像液中にカプラーを混入して処理する「外式」という方式のフィルムで、それが理由なのかどうかはわかりませんが、とてもコクのある発色をするフィルムでした。日本国内でも現像できるラボは限られており、現像が上がってくるまでの時間も他のフィルムに比べて長くかかりましたが、他のフィルムでは見られない発色に魅了されて使い続けていました。

 これに対して富士フイルムの製品はどちらかというと鮮やかな発色をするフィルムで、特に風景写真用として愛用している人はたくさんいました。もちろん、光の状態や気象条件などによって異なりますが、実際に肉眼で見るよりも綺麗に写るという表現も決して過言ではないという印象です。フジクロームというフィルムの鮮やかな発色の傾向は製品がモデルチェンジされるごとに強化された感じですが、ベルビアというフィルムをピークに、それ以降は抑えられたように思います。
 とはいえ、現行品であるベルビア100やプロビア100Fも十分に鮮やかな発色をするフィルムであることには違いありません。その鮮やかさゆえか、現像後のポジ原版をライトボックスで見ると、撮影時の現場の映像が見事によみがえってくるという感じです。

 私が写す被写体は山とか渓谷が多いのですが、四季折々の美しさがあり、あっちもこっちもシャッターを切りたくなります。肉眼で見てももちろん綺麗なのですが、カメラのファインダー越しに見るとまた違った美しさがあります。肉眼だとほぼパンフォーカス状態で見えますが、ファインダー越しだとピントの合う範囲は限られてしまい、ボケの中に被写体が浮かび上がっているように見えることが理由の一つかもしれません。
 被写体に振り回される、という言い方をすることがありますが、まさにそれに近い状態になってシャッターを切りまくってしまうなんていうことも少なくありません。いい写真が撮れているに違いないという、何の根拠もない変な自信のようなものに後押しをされながら、現像後のポジ原版を頭の中に描きながらバシバシと...

 しかし、そういう状態で撮影したものに限って現像後のポジを見ると、こんなはずではなかったと打ちのめされることがしばしばあります。

 例えば下の写真です。

 これはずいぶん前に撮ったものですが、新緑がとても鮮やかで、青空とのコントラストも川の流れも美しく、まさに初夏の風景といった感じの場所でした。しかし、写真を見ると全くどうってことありません。新緑の山とか青空の色は確かに綺麗なのですが、写真としては何の魅力もないというか、「あ、そう。で?」という感じです。撮るときはそれなりに手ごたえのようなものを感じていたのではないかと思うのですが、出来上がりとのギャップの大きさに愕然とした記憶があります。
 このようなことは何も新緑の風景に限ったことではありません。一面に咲くお花畑のようなところでも起きるし、紅葉の風景でも雪景色でも起こりえます。
 こうした駄作はポジ自体を廃棄してしまっていたのですが、なぜかこのポジはしぶとく残っていました。

 なぜこのようなことが起きるのか、自分で撮影をしておきながらこういった写真を見るたびに考えされたものです。フレーミングが悪いとか構図がなっていないといえばそれまでですが、そんな一言で片づけられるのとはちょっと違うと思います。

 肉眼の時は3次元の状態で見ていますが、これが写真になると当然、2次元になってしまいます。しかも、二つの眼で見ているのに対してカメラのレンズは一つですから、奥行きに対する情報が欠落してしまうわけで、これがつまらない写真を作り出す大きな原因ではないかと思われます。
 一方で、同じ場所でもステレオ写真にしたものを見ると立体感が感じられ、普通の写真を見た時とは全く違った風景に見えます。これは、2枚の写真を同時に見ることで、擬似的に3次元に見えることが理由ではないかと思います。

 これによく似た現象で、階段を撮影した写真を見た時に、その階段が上っているのか下っているのかわからないということがあります。これも3次元から2次元になることで多くの情報が欠落してしまうことによって、上りか下りかわからなくなってしまうのだろうと思います。

 しかし、同じ風景でもこれを動画(ビデオ)で撮影したものを見ると全く違っており、肉眼で見た時の印象に近い感じに、もしかしたら肉眼以上に美しく感じることもあります。私は動画撮影はほとんどやることがないのですが、動画サイトにアップされている映像を拝見するとそのように感じます。動画は動きがあるので、映像は2次元であっても動きが加わることによって奥行きを感じられるからではないかと、勝手に想像しています。

 一概に言い切ってしまうことはできないとは思いますが、やはり写真には奥行き感というか、立体感のようなものが必要で、それが著しく欠如している写真というのは肉眼で見たものとのギャップが大きく感じられるのだろうと思います。
 上の写真も手前の川から遠景の山まで、実際には奥行きがあるのですが、それがまったく感じられません。例えば、もう少し右側、または左側の位置から撮影して、川が斜めに配置されるような構図になっていればもう少し奥行き感が出て、多少は見栄えのする写真になったのではないかと思います。

 このように、被写体は素晴らしいのにも関わらず、これまで駄作をどれほど量産してきたことか、頭の中でお金に換算してみるとなんだか凹みます。この写真を撮った頃はフィルムも比較的安価に購入できたのでお気楽なものでしたが、昨今のようにフィルム価格が高騰していると笑って済まされなくなります。

 しかしながら、こんな駄作を量産してきたおかげで、シャッターを切る前につまらない写真になるか、それともそこそこ見栄えのする写真になるかを考えるようになったのは怪我の功名と言えるかもしれません。
 ここは綺麗な場所だからとか、風光明媚だからということで何とかフィルムに記録しようと思っても、なかなかフレーミングや構図が決まらないということがしばしばあります。そんなときはむやみにシャッターを切らずにじっくりと風景と対峙してみるのも大事なことかと思っています。

 余談ですが、オールドレンズという言葉が使われるようになって久しい感じがします。オールドレンズに明確な定義はないようですが、オートフォーカスが出回る以前のマニュアルレンズで、概ね、1970年以前に作られたレンズを指すようです。
 オールドレンズの人気が高まってきた理由の一つは特徴的なボケであったり、フレアやゴーストが起こり易いとか、全体的に彩度やコントラストが低めといったことにより、今のレンズにはない独特の写りをすることだと言われておりますが、それがインスタ映えするなどということで使う人が増えてきたのだろうと思います。

 こういった特徴的なボケやフレア、低コントラストなどは、今のレンズに比べて性能が低いことで生じるものですが、実はこれによって写真に奥行き感や立体感が生まれてくるのではないかと思っています。つまり、主被写体とそれ以外のところの描写に大きなギャップがあり、それによって主被写体が浮かび上がってくるように見えるのだろうということです。
 独特のボケ味ももちろん面白いですが、写真全体から感じられる奥行きのようなものがあり、今の高性能のレンズにはない描写になるというのがオールドレンズの魅力として受け入れられているのではないかと思っています。
 やはり、写真には奥行き感とか立体感というのは重要な要素なのだと感じます。

 オールドレンズについては、機会があればあらためてつぶやいてみたいと思います。

(2022.5.20)

#フレーミング #写真観 #構図

写真にタイトルをつける(2) タイトルをつけるときの視点

 前回は、写真にタイトルをつけることによる効果について触れましたが、今回は、実際に写真にタイトルをつける際に意識すること、もう少し具体的に言うと、どのような視点でタイトルを決めるかということについて進めてみたいと思います。
 私は今回ご紹介するように、5つの視点のうちのいずれかでタイトルをつけることが多いです。あくまでも私の個人的な視点ですので、もちろん他にもたくさんの視点があると思いますが、参考になればと思います。

光や色、音、匂いなどからタイトルをつける

 写真というのは光を画像として記録しているわけですから、当然のこと、光とか色を視覚的に認識することができます。カラー写真であれば様々な色であり、モノクロ写真であれば濃淡として表現されます。また、光芒とか光彩などのように、光そのものが感じられることもあります。

 さらに、光のように直接的に認識できるものだけでなく、画像から、その場に聞こえているであろう音とか匂いとか、そういうものも間接的に感じることができます。例えば滝の写真であれば、流れ落ちる水の音を感じるでしょうし、梅の写真を見ればほのかな香りを感じると思います。

 こういった光や色、音、匂いなどをタイトルのもとにすることは比較的多く、タイトルにし易いかも知れません。
 例えば、木々の間から差し込む光芒が印象的だった場合、それをタイトルに加工することで、より印象が強まります。ただし、タイトルを「光芒」などのようにそのまま使うのではなく、表現を変えるなどのひと工夫が必要です。

 下の写真は、ちょうど今頃に咲いている「ロウバイ」を撮ったものです。

 この写真のタイトルは「木陰のぼんぼり」としました。黄色のロウバイの花に光が差し込んで、まるで花が自ら発光しているような感じです。
 ロウバイの印象がより強まるようにと思い、逆光になる位置からの撮影で、背景は暗く落ち込むように陰になっている場所を選んでいます。
 光り輝いている小さな花が、まるでひな祭りのぼんぼりのように感じられたのでこのようなタイトルにしたのですが、これを「木陰の提灯」としてしまうと雰囲気がそがれてしまう感じです。また、ぼんぼりは漢字で「雪洞」と書きますが、漢字よりも平仮名の方が優しい感じになると思います。

擬人化してタイトルをつける

 このタイトルのつけ方は一般的な風景よりも、花とか木とかの写真に対して使うことが多いです。簡単に言うと、花や木を人間に見立てて、姿かたちや仕草、立ち居振る舞い、表情などに例えるというやり方です。特に花の場合は人間に例え易く、そういう視点で見るとまるで人間と同じように見えてくるので不思議なものです。

 チューリップやヒマワリ、ユリなどが被写体になることは多いと思いますが、咲いている姿が躍っているようだとか唄っているようだと感じた経験のある方もたくさんいらっしゃると思います。そういった人間の姿や言動を重ね合わせて、それをタイトルにします。
 踊っているように見えるとすれば、「踊り子」とか「バレリーナ」などという言葉が連想されますし、唄っているように見えるところからは「熱唱」とか「コーラス」などという言葉が浮かんできます。
 「踊り子」などは写真によってはそのままタイトルになるような場合もあると思いますが、ちょっと味付けをすることで、より印強いタイトルにすることができます。

 紅葉し始めたカエデの葉っぱを撮ったのが下の写真です。

 タイトルは、「初めてのルージュ」です。

 まるで塗り絵でもしたかのように、しかも一枚だけが色づくのはあまりないと思うのですが、その色づいた赤があまりに鮮やかだったので、初めて口紅を塗ってみた女性に例えたタイトルです。ちょっとはみ出してるように見えるところから、「初めてのルージュ」としてみました。

 また、この写真にはキャプションもつけてみました。
 「ようやく色づき始めたカエデが一葉 まだお化粧には慣れていないようです」

 タイトルだけでは伝わりにくいかなと思ったこともありますが、ほのぼのとしたユーモラスさを表現できればと思ってつけたキャプションです。
 自然界は時として予想もしなかった姿を見せてくれることがありますが、そういう光景も擬人化することで写真を引き立てるタイトルになることもあると思います。

主題からタイトルをつける

 写真は主役と主題があるとよく言われます。主役と主題が同じということもまれにはあると思いますが、主役と主題は別のものであることの方がはるかに多いのではないかと思います。
 例えば、桜を中心となる被写体として撮影した写真の場合、主役は桜であっても主題は全く別物です。雪の残る山を背景に咲いている風景であれば、「春の訪れ」というようなことが主題になるかも知れませんし、風に散っていく桜の写真であれば、「儚さ」のようなものや「春から初夏へ」というようなことが主題になるかも知れません。
 要するに、桜の写真を通して何を伝えたいかによって主題は変わってきます。

 写真を撮影するときに主題が明確になっている場合もあれば、あとで仕上がった写真を見て主題が決まる場合もあるというのは前回にも触れた通りです。撮影の前に主題がはっきりしていたほうが作画意図が明確になるのは言うまでもありませんが、あとから主題を決めるのが悪いとも思いません。
 いずれにしても、その写真から何を伝えたいか、それを明確に持つことは大切なことで、それをタイトルにするというやり方です。

 長野県と群馬県の県境にある白根山を撮影しました。

 この写真には、「天翔ける」というタイトルをつけてみました。

 撮影したのは雨が降った翌日の早朝で、空気がとても澄んでおり、はるか向こうに富士山が見えます。筋状になっている雲も含めてとにかく空がきれいで、白根山と同じくらいの高さから撮影していることもあり、まるで空を飛んでいるかのような錯覚さえ覚えます。
 この写真の主題は限りなく広がる美しい空です。それを、そのとき自分が抱いた感覚をタイトルにしてみました。

 もし、空ではなく煙が立ち昇っている白根山に主題を感じたならば、構図も違ってくるでしょうし、当然タイトルも全く違ったものになります。

イメージや印象からタイトルをつける

 このタイトルのつけ方はちょっと説明しずらいのですが、被写体、あるいは仕上がった写真を見た時に全体から受ける印象をタイトルにする方法です。
 同じ被写体でも肉眼で見た時とファインダー越しに見た時、そして仕上がった写真を見た時では受ける印象はずいぶん違うことがありますが、いずれにしても全体から受けるイメージや印象を言葉にするといったやり方です。前の3通りのやり方のように、この部分がというよりは全体をボヤっと見た感じとでも言ったらよいのか、とにかく感覚とか感性に頼るという感じです。
 被写体として何が写っているかということよりも、全体の色とかコントラストとか、そういうものに影響されると思います。

 下の写真はニガナという小さな花を撮ったものです。

 「幸せの予感」というタイトルは、この写真全体から受ける印象をもとにしています。
 また、このようなタイトルは撮り手の感性によるところが大きいので、見る人はまったく違った印象を持つ可能性が大です。そのため、キャプションをつけています。

 「梅雨の合間の青空に黄色が映えて、何かいいことがありそうな気がします」

 このように、キャプションをつけることで撮り手が感じていることを伝える補助にはなりますが、だからと言って誰しもが同じように感じてもらえるわけではありません。理解不能などと思われてしまうことも考えられるということを承知しておいた方が良いと思います。

 とはいえ、このタイトルと写真がぴったりと合ったときは、それなりの訴求力があると思います。

説明的にタイトルをつける

 さて、タイトルのつけ方の5つ目ですが、これは写っている状況を説明するようなタイトルにするという方法です。
 説明するといっても、誰が見てもわかるようなことをそのまま表現しても効果的なタイトルにはなりません。例えば、湖のほとりに菜の花が咲いている写真に、「湖畔に咲く」という説明的なタイトルをつけても、言われるまでもないといった感じになってしまいます。

 偶然見つけたミズバショウの群落を撮った写真です。

 タイトルは「雪消水の潤い」です。
 雪消水(ゆきげみず)とは雪が解けて生じた水のことですが、その大量の水がこの場所に流れ込み、ミズバショウが育つ環境を作っているということを説明しようと思ってつけたタイトルです。
 湿地にミズバショウが咲いているのは写真を見れば明らかですが、それは冬の間に降った雪によってもたらされているということを伝えようと思いました。

 写真に写っている状況を直接的に説明するだけでなく、その状況を作り出すもとになっているものやそこに至るまでの経緯などを説明するようなタイトルにすることで、見る人にイメージを膨らませてもらうことが出来ると思います。

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 自分で撮った写真にタイトルをつけて、それを何度も眺めていると、しっくりくるものもあればちょっと違うなと思うものもあります。もし、違和感があればつけ直してみるも良し、また、違った視点でタイトルを考え直してみるも良しで、自分の写真を見直す良いきっかけになるのではと思っています。
 今回は日頃、私が写真にタイトルをつけるときに用いているやり方をご紹介しましたが、タイトルやキャプションのつけ方は自由です。自分の感性でつけるのがいちばんだと思いますが、できれば写真を生かすようなタイトルにしたいものです。

(2022年2月21日)

#フレーミング #写真観 #構図 #額装

写真にタイトルをつける(1) タイトルがもたらす効果

 デジタルにしても銀塩にしても、撮影した写真はパソコンやスマホで見たりプリントして観賞したりしますが、コンテストや写真展に出す以外はタイトルもつけられずに放っておかれることが多いのではないかと思います。
 しかし、写真はタイトルをつけて初めて完成するものだと思っています。もちろん、自分だけで観賞する写真にタイトルなんか必要ないという考えもあるかと思いますが、タイトルをつけると自分で撮った写真がちょっと立派になったように感じるのも事実です。撮影した写真すべてにつけることはありませんが、お気に入りの写真にはタイトルをつけてあげたいと思います。
 私が自分で撮影した写真にどのようにタイトルをつけるかということについて、私なりの考え方、やり方をご紹介したいと思います。あくまで私流であるということをご承知おきください。

「タイトル」をつけると写真が輝いてくる

 写真にタイトルをつけずに放っておく最大の理由は「面倒くさい」ということではないかと思います。タイトルをつけるというのは、管理番号や識別番号を振るように機械的にできるわけではなく、それなりに時間もかかるので面倒くさいと感じるのも確かです。
 また、タイトルのつけ方に決まり事があるわけではないので、どのようなタイトルをつけようと自由なのですが、かと言って何でもつければ良いというものでもなく、やはり写真が生きるタイトルにするのが望ましいわけです。

 一つの例として、赤いバラを撮影した写真を想定してみます。この写真に「薔薇」とか「赤いバラ」というようなタイトルがつけられているのを目にすることがあります。しかし、バラの写真を見てヒマワリだとかスミレだと思う人はいないでしょうし、赤いバラを白いバラだと思う人もまずいないでしょう。そのようなことはわざわざ言われなくてもわかるわけですから、タイトルとしては無意味とは言いませんが、決して効果的なタイトルとも言えません。
 また、バラは数万種もあると言われている一つひとつに固有の名前(有名どころでは、ピースとかクイーン・エリザベスとか)がつけられているようですが、それらをタイトルにつけても、植物図鑑ではないのでやはり効果的なタイトルとは思えません。

 写真というのは見る人にとっては二次元の画像だけですから、撮り手が撮影の際に持っていた情報のごく一部しか伝えることができません。それを補うことができるのがタイトルだと思います。
 撮影の際に見たことや聞いたこと、感じたこと、体験したこと、そして写真を通して伝えたいことなどをタイトルとして表現することで、見る人は画像だけでは感じ得ないその場の情景や雰囲気などをイメージすることができます。見る人がイメージを膨らますことで、単に画像だけを見せられた時と比べて全く違う写真に見えるはずです。これがタイトルによって写真が輝きを増す、あるいは写真が生きるということだと思います。

 タイトルをつけることで見る人に与える情報量の増加分は、文字数にして数文字というほんのわずかでしかありません。しかし、そのわずかに増えた情報量によって、見る人が描くイメージは何倍にも何十倍にも、もしかしたら何百倍にもなるわけで、それがタイトルの持つ大きな効果だと思うわけです。

 赤いバラの写真を例にと思いましたが適当なバラの写真がありませんでしたので、タンポポの綿毛の写真を例にしてみます。
 写真展のように、写真が額装されて壁にかけられている状態をイメージしてみました。

 このように写真だけを見せられた場合、まず、タンポポの綿毛ということはすぐにわかると思います。そして、下の方にスギナとかタネツケバナとかが写っているのと、画全体が比較的明るい緑色をしているので、春なんだろうなぁということぐらいはわかるでしょう。しかし、見る人にとって、それ以上にイメージは膨らまないのではないかと思います。

 では、この写真にタイトルをつけてみます。

 一つの例として、ここでは「旅立ちを待つ」というタイトルをつけてみました。

 このタイトルによって、もう間もなくするとタンポポの綿毛が飛んでいくのだろうということが伝わり、見る人はいろいろなイメージを描くことができます。空に舞い上がった綿毛を思い浮かべるかもしれませんし、綿毛がすっかりなくなった後の光景をイメージするかも知れません。それは見る人によって千差万別ですが、タイトルによってイメージが膨らむことは事実だと思います。
 もし、この綿毛をポンポンに見立てて、タイトルを「草むらのポンポン」とすると、全く違ったイメージになると思います。

 このように、写真にタイトルをつけることで、見る人のイメージを膨らませるとともに、写真から何を伝えたいのかをある程度、明確にすることができます。

さらに「キャプション」をつけることで写真の訴求力が高まる

 タイトルをつけただけでも写真の見え方はずいぶん変わってきますが、撮り手の想いをより伝えたい場合はキャプションをつけると効果的だと思います。
 キャプションは、タイトルによって写真を見る人が描くイメージをより大きくしたり、タイトルだけでは伝えきれないことを見る人に伝えることができます。
 その場の情景を説明的に書いたり、撮影した時に自分が感じたことや思ったことを書いたり、内容は自由で構わないと思いますが、あまり長い文章にしない方が良いと思います。長いと読みたくなくなってしまうので、パッと見て書かれている内容が把握できるくらいが効果的ではないかと思います。

 先ほどのタンポポの綿毛の写真にキャプションをつけてみます。

 例えば、「背伸びをして、新天地に向かう風が来るのをじっと待っているようです」というキャプションをつけてみました。

 このキャプションがあることによって、タンポポの綿毛が風に乗って飛んでいくというイメージをより強く描くことができるようになると思います。

 ただし、キャプションは必ずしも必要というわけではなく、見る人がイメージする自由度を大きくしたい場合はタイトルだけにしておいた方が良い場合もあります。見る人がどう感じるかは自由ですから、撮り手の想いをあまり無理強いしないようにすることも大切だと思います。

タイトルをつけることで自分の写真を見直す

 写真を撮るという行為をするということは、対象となる被写体を撮りたくなる何某かの理由があるわけです。風景や花などの場合は、「とにかく綺麗だから」というのが最も明確でわかり易い理由かもしれません。
 そして、綺麗だと感じたその被写体を四角の枠で切り取るわけですが、この時、どこをどのように切り取るかというところに撮り手の作画意図が働くわけです。同じ位置からの撮影であっても、カメラを少し上に振ったときと下に振ったときでは出来上がる写真に大きな違いがあります。

 下の2枚の写真は蕎麦畑の中の石仏を撮ったものですが、2枚とも同じポジションから撮影しています。

 左の写真はカメラを下側に、右の写真はカメラを上側に、それぞれ少しだけ振っています。同じ被写体ですが写真から受ける印象はまったく違います。いずれも主な被写体は石仏と蕎麦畑ですが、左の写真は蕎麦の花に囲まれており安らぐような感じがしますが、右の写真は寂寥感さえ感じます。被写体を見た時にどう感じたか、それをどのように伝えたいかによって撮り方が変わってくるということです。

 また、写真で伝えたいものが最初から明確になっていて撮影する場合もあれば、それほど意識をせずに撮影して、あとから伝えたいものを明確にしていく場合もあります。いずれにしても、自分で撮影した写真を何度も見て、いったい自分はこの写真を通して何を伝えたいのか、ということを自分自身に問うてみることは大切なことだと思います。

 そして、それをタイトルにして写真につけます。タイトルをつけるのが難しいということを良く聞きますが、その理由は大きく2つあると思っていて、一つは、そもそも写真で伝えたいものがはっきりしていないという状態、もう一つは、伝えたいものは明確になっているが、それをタイトルとしてうまく表現できないという理由です。
 後者はイメージを具体的な文字として表現するわけですから、いわばテクニックのようなものであって、これは何とでもなると思っています。問題は前者で、こちらはイメージすらないということですから、タイトル云々以前の問題です。

 撮影の段階で伝えたいことが、もっと言えば、つけるタイトルまでもがある程度イメージできているのが良いのかもしれませんが、魅力的な被写体を前にしたときは撮ることが精いっぱい、ということが多いのも事実です。
 自分で撮った写真をじっくり見直してみるというのも大切なことで、それによって撮影時の作画意図も徐々に明確になっていくものだと思います。

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 今回は、タイトルやキャプションが写真に与える効果について触れましたが、次回は、実際にどのような視点でタイトルをつけているかということについて書いてみたいと思います。

(2022年2月15日)

#フレーミング #写真観 #構図 #額装

大判写真と35mm判写真は何がどのように違うのか

 私は風景を撮る機会が多いので、大判カメラ(主に4×5判)を使う頻度も高くなります。カメラはでかいし、撮影に手間がかかり著しく機動性に欠けるし、フィルムや現像などコストはかかるし、デメリットばかりが目立ってしまいがちですが、仕上がった大判写真の美しさや迫力は、数々のデメリットを補って余りある魅力があります。
 写真としての出来不出来は大判だろうが35mm判だろうが関係なく、大判だから良い写真が撮れるわけではありませんし、もちろん35mm判でも良い写真は撮れます。ですが、大判と35mm判とでは明らかに異なる点がいくつかあります。今回はその違いについて触れてみたいと思います。

フィルムサイズの違いとその影響

 35mm判と大判で最もわかり易い明確な違いは、言うまでもなく一目瞭然、フィルムのサイズです。実際に画像が記録される大きさは、

  35mm判 : 36mm × 24mm
  4×5判  : 121mm × 95mm

 で、面積比でいうと4×5判は35mm判の約13.3倍になります。
 アスペクト比(縦横比)が異なりますが、4×5判の対角の長さは35mm判の約3.56倍になります。

 フィルムをデジカメの撮像素子のような画素数で表現することはあまり意味があるとは思いませんが、比較をするうえで数値化したほうがわかり易いので、あえて画素数で表してみます。
 富士フィルムが公開しているデータシートによると、リバーサルフィルムVelviaの場合、解像力は80~160本/mmとなっています。コントラストが非常に低いときで80本/mm、高コントラスト時で160本/mmということですので、中間の値をとって120本/mmとして計算してみます。

 この「解像力」の意味ですが、120本/mmとは、1mmの幅の中に120本の線を識別できるということです。したがって、最低でも240画素以上が必要ということになります。
 この値をフィルムのサイズにかけ合わせると以下のようになります。

  35mm判 :  36mm × 240本/mm × 24mm × 240本/mm
       = 8,640dot × 5,760dot
       ≒ 4,977万画素

  4×5判 :  121mm × 240本/mm × 95mm × 240本/mm
       = 29,040dot × 22,800dot
       ≒ 6億6,211万画素

 では、この画素数の違いが、写真にとってどの程度の影響があるかということを試算してみます。35mm判と4×5判ではアスペクト比が違うので、横置きの場合の水平方向(長辺)を対象に進めます。

 いま、35mm判カメラに焦点距離50mmのレンズをつけて、5m先の被写体にピントを合わせることを想定してみます。水平方向の長さ36mmのフィルムに対して焦点距離50mmのレンズですので、水平画角は39.6度になります。
 4×5判のフィルムでこれと同じ水平画角となるレンズの焦点距離は168mmです。実際に168mmなどという中途半端な焦点距離のレンズはないと思いますが、便宜上、この値で話を進めます。
 下の図を参照してください。

 上の図から分かるように、5m先にある被写体を、水平画角39.6度でとらえた時、フィルムに写る水平方向の長さは3.6m(3,600mm)です。
 この3.6mを、35mm判では8,640dotで、4×5判では29,040dotで記録するわけですから、それぞれの分解能は以下のようになります。

  35mm判 : 3,600mm ÷ 8,640dot = 0.417mm/dot
  4×5判 : 3,600mm ÷ 29,040dot = 0.124mm/dot

 つまり、5m先にある被写体について、35mm判では最小で0.417mmまで識別でき、4×5判では最小で0.124mmまで識別できるということになります。言い換えると、35mm判が1ドットで記録される範囲を、4×5判は約3.36ドットで記録されるということです。
 これは、数値上からは5m先にいる人の指の指紋が識別できる解像度ですが、実際には指紋のコントラストはそんなに高くないと思いますので現実的には無理ではないかと思われます。

 また、色が変化しているような場合、4×5判の方が色の変化を滑らかに記録できることになります。35mm判で画素と画素の間の色の変化を、4×5判では3.36段階に分けて記録されるわけですから、滑らかさの違いは想像に難くないと思います。
 画素数が多いことで細部まで記録できるのはもちろんですが、写真を見た時に、35mm判に比べて4×5判で撮った写真の方が階調が豊かに感じられるのはこのような理由ではないかと思います。

 なお、実際にはレンズによっても左右されると思いますが、ここではレンズによる影響は考慮していません。

被写界深度の違いとその影響

 フィルムサイズ(画素数)の違いの次は被写界深度の違いです。
 上と同じ条件(35mm判に焦点距離50mmのレンズ、4×5判に焦点距離168mmのレンズをつけ、5m先の被写体を対象)のときの被写界深度を比較してみます。

 被写界深度の計算式(近似式)は以下の通りです。

  前側被写界深度 D₁ = a²εF / (f² + aεF)
  後側被写界深度 D₂ = a²εF / (f² - aεF)

 ここで、
  a :被写体までの距離[mm]
  ε:許容錯乱円[mm]
  F :絞り値
  f :レンズの焦点距離[mm]
 です。

 許容錯乱円は35mm判の場合、0.022~0.028mmの値が使われていることが多いようなので、ここでは中間の値の0.025mmを用いることにします。
 上の式に、a = 5,000、ε = 0.025、f = 50、および、f = 168、絞り値Fには大判レンズの開放値として多く採用されているF = 5.6をあてはめてみます。

 まず、35mm判、焦点距離50mmのレンズの場合です。

  前側被写界深度 = 5,000×5,000×0.025×5.6 / (50×50 + 5,000×0.025×5.6)
          = 1,094mm

  後側被写界深度 = 5,000×5,000×0.025×5.6 / (50×50 – 5,000×0.025×5.6)
          = 1,944mm

 続いて、4x5mm判、焦点距離168mmのレンズの場合です。

  前側被写界深度 = 5,000×5,000×0.025×5.6 / (168×168 + 5,000×0.025×5.6)
          = 121mm

  後側被写界深度 = 5,000×5,000×0.025×5.6 / (168×168 – 5,000×0.025×5.6)
          = 127mm

 この結果から分かるように、同じ絞り値F5.6の場合、35mm判(f=50mmレンズ)の被写界深度は3,038mmですが、4×5判(f=168mmレンズ)の被写界深度はわずか248mmしかありません(いずれも前側被写界深度と後側被写界深度を加算した値です)。

 ピントが合っているように見える範囲は、35mm判は4×5判の12倍以上あるわけですから、写真を見た時に明らかに違いが感じられます。4×5判ではピントの合っている範囲がごく一部であっても、35mm判だとかなり広範囲にピントが合っているように見えるはずです。この被写界深度の違いはフィルムサイズの違いによる影響よりもはるかに大きなインパクトを与えます。

 被写界深度は絞り値に影響を受けるので、4×5判(f=168mmレンズ)で35mm判(f=50mmレンズ)と同じだけの被写界深度を稼ぐには絞り値をどれくらいにすればよいかを計算してみます。

 上で示した被写界深度から絞り値Fを求めるように変形します。

  絞り値 F = ( (a²ε/D₁f²) - (aε/f²) )⁻¹

 この式に、35mm判(f=50mmレンズ)の前側被写界深度 D₁=1,094 を当てはめて計算すると、

  絞り値 F = ((5,000×5,000×0.025 / 1,094x168x168) – (5,000×0.025 / 168×168))⁻¹
       = 63.24

 となり、F64まで絞ると、35mm判(f=50mmレンズ)のF5.6とほぼ同じ被写界深度になることがわかります。

 なお、許容錯乱円の値を35mm判と同じ0.025mmを用いましたが、4×5判からプリントする場合は35mm判に比べて拡大率が低いので、一般には許容錯乱円の値も35mm判よりも大きな値(0.08~0.1)を使うことが多いようです。しかし、フィルム上での比較ということで、ここではあえて同じ値で計算しました。

 適当な作例がありませんが、ストックの中から探してきました。
 1枚目が4×5判に焦点距離210mmのレンズをつけて撮ったもの、2枚目がAPSサイズのデジカメで焦点距離40mm近辺で撮ったものです。

▲4×5判 210mm F8 1/30
▲APSサイズ 約40mm F8 1/20

 2枚のフレーミングは少しずれていますが、おおよそ同じ位置から撮っています。ツツジまでの距離は4~5mといったところです。絞り値はいずれもF8で、4×5判で210mmレンズと、APSサイズで40mmレンズの画角はほぼ同じです。
 風が強くてかなり被写体ブレを起こしていますが、今回はそこは無視してください。

 4×5判の方は後方の白樺の木がほとんどボケていますが、デジカメの方はかなり後方まで鮮明に写っているのがわかると思います。
 同じ被写体、同じ構図ですが、写真を見たイメージはずいぶん違うと思います。

ボケの大きさの違いとその影響

 3点目の違いはボケの大きです。ここでいうボケとは、ピントが合っていないところのボケの大きさをいいます。
 ここでも上と同じ条件(35mm判に焦点距離50mmのレンズ、4×5判に焦点距離168mmのレンズをつけ、5m先の被写体を対象)のときに、無限遠のボケの大きさがどれくらい異なるのかを試算してみます。

 まず、ボケの大きさはレンズの絞り値によって決まります。
 レンズの焦点距離 f、絞り値 F、そして有効径 Dの間には次のような関係式が成り立ちます。

  絞り値 F = f/D

 よって、レンズの有効径は、

  有効径D = f/F

 上の式に、焦点距離50mm、および168mm、絞り値5.6をあてはめてレンズの有効径を求めると、

  50mmレンズの有効径 = 50 / 5.6
            = 8.928mm

  168mmレンズの有効径 = 168 / 5.6
             = 30mm

 となります。

 これを図に表すとこうなります。

 上の図で、ピントの合っていないところがボケの大きさを表すことになるわけですが、絞り値が等しければ光軸に平行に入ってきた無限遠光は同じところに焦点を結ぶので、ボケの大きさも等しくなります。

 では、この状態から5m先の被写体にピントを合わせた場合のレンズの位置を計算してみます。

 レンズの焦点距離 f、レンズから被写体までの距離 a、レンズから撮像面までの距離 bの間には次のような関係があります。

  1/a + 1/b = 1/f

 よって、

  1/b = 1/f - 1/a

 この式に、a = 5,000、f = 50、および、f = 168 をあてはめると、

  50mmレンズ 1/b = 1/50 – 1/5,000
        b = 50.505mm

  168mmレンズ 1/b = 1/168 – 1/5,000
        b = 173,841mm

 となります。
 すなわち、無限遠からの繰出し量が50mmレンズの場合は0.505mm、168mmレンズだと5.841mmということです。
 レンズが前に繰り出した分、無限遠はボケることになります。

 次に、無限遠のボケ径は次の式で求められます。

  ∞ボケ径 d = F²/F(a - f)

 この式に、絞り値 F = 5.6、被写体までの距離 a = 5,000、焦点距離 f = 50、および、f = 168 をあてはめると、

  50mmレンズ∞ボケ径 = 50×50 / 5.6x(5,000 – 50)
            = 0.090mm

  168mmレンズ ∞ボケ径 = 168×168 / 5.6(5,000 – 168)
             = 1.043mm

 となり、5m先にピントを合わせた時の無限遠のボケの大きさは、35mm判(f=50mmレンズ)に対して4×5判(f=168mmレンズ)は約11.6倍にもなります。これは被写界深度の違いと同様で、写真を見た時に35mm判と4×5判では明らかに印象が異なります。同じ画角で同じ範囲を写しても、35mm判に比べて4×5判の方が急激に、しかも大きくボケていくことがわかります。

 では、焦点距離168mmのレンズの無限遠のボケ径が、50mmレンズと同じ大きさ(0.09mm)になるにはどれくらいまで絞ればよいかを計算してみます。

 上の式から、絞り値 F は次のように求めることができます。

  絞り F = f²/ d(a - f)

 ここにそれぞれの値をあてはめると、

  絞り F = 168×168 / 0.09x(5,000 – 168)
      = 64.9

 となり、およそF64まで絞ると50mmレンズのボケ径とほぼ同じになることがわかります。

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 このように、4×5判で撮影した写真は、撮像面の大きさによる画像の鮮明さや階調の豊かさに加え、被写界深度の違いやボケの大きさの違いによって、同じ範囲を写した写真でも35mm判の写真とは全くイメージの異なる画になります。
 どの範囲にピントを合わせ、どのようにボケを取り入れるかなどは作画意図によって変わってきますが、大判写真というのは豊かな階調やボケの大きさなどの要素が合わさり、非常に奥行きのある画になるという特徴があると思います。

 一方で、被写界深度が深ければピントの合う範囲が広いので、全体として締まりのある感じになるでしょうし、浅ければ被写界深度を稼ぐために苦労するかもしれませんが、その反面、主張したいところだけを浮かび上がらせることができます。どちらがより良いということではなく、35mm判なり4×5判なり、それぞれの特性を活かした作画をすべきなんだろうと思います。

 また、今回は35mm判と4×5判が同じ画角になるようにそれぞれ、50mm、168mmの焦点距離のレンズで試算しましたが、35mm判のカメラに168mmの焦点距離のレンズを付けても被写界深度やボケの大きさに関しては4×5判で計算した値と同じになります。
 ただし、写る範囲がぐっと狭まりますので、出来上がる写真のイメージはまったく違うものになります。

 大判写真というのは単にフィルムが大きいので綺麗に写るということだけでなく、35mm判とは大きく異なる要素がいくつかあります。そういったことを理解したうえで構図をどうするか、どのように撮影するかということを考えるのも大判写真の楽しさかもしれません。

(2021年8月22日)

#レンズ描写 #写真観

わかるようでわからない、写真の「空気感」について思うこと

 どの業界にも、そこに携わる人以外にはなかなか理解しがたい「業界用語」なるものがあります。中にはすっかり市民権を得てしまった業界用語などもありますが、多くは一般の人が使うことは稀です。業界用語はその道の専門家が使ってこそ効果的であり、一般人が使っても浮いた感じに聞こえてしまいます。

 写真の世界にも業界用語なるものがあり、写真やカメラを職業にしている方々は日常的に使っていると思います。しかし、職業にしていなくても写真やカメラを趣味としている人は非常にたくさんいるわけで、こういった人たちの間にも業界用語、というよりも写真用語と言った方が適切かもしれませんが、それが良く使われています。この辺りが、他の業界用語とはちょっと違っているところではないかと思います。

 もちろん、写真業界の用語と言っても非常に多岐に渡っているわけですが、中でもわかりにくいのが写真そのものを表現する用語です。
 写真を見て、「抜けがいい」とか「甘い」とか、「透明感がある」、「シズル感に満ちている」などと表現する人は多いと思います。写真をやらない人からすると何言ってるのかほとんどわからないと思いますが、写真をかじったことのある人であればほぼ通じますし、わかりにくい中でも比較的わかり易い言葉だと思います。

 例えば、「抜けが良い」というのは「クリアですっきりとした描写の写真」という認識の人が多いでしょうし、「甘い」といえば「ピントが合っていない、なんとなくボケている」といった理解だろうと思います。
 これらはある程度、物理的に説明ができる(例えば、低周波のコントラストが高くなると抜けが良く感じるなど)ので、人によって認識が大きく異なるということがないと思われます。平たく言えば、説明がし易い、ゆえに理解し易いということでしょう。

 これに対して、非常にわかりにくいのが「空気感」という言葉です。
 この言葉の意味を調べてみると、圧倒的に多いのが「その場にいるような感じ」とか、「その場の雰囲気」という説明です。これらの説明からすると、「臨場感」のようなものを指しているように思ったりもします。

 しかし、私は常々、これらの説明には100%うなずけないものを感じています。

 同じく「空気」という単語が使われている言葉に、「空気までも写し取るような」という表現があります。カール・ツァイスのレンズを評価するときによく使われている印象があるのですが、これは「空気感」とは全く違うと思っています。「空気までも写し取る」とは、人間の目では見えないものまでも写すほどのレンズ、ということの例えであり、そのレンズの性能のすばらしさを表現しているのだと思います。

 しかし、「空気感」はレンズの性能を表現しているのとは少し違います。

 多くの説明にあるような「その場にいるような感じ」ということであるとすると、例えば、気持ちよく晴れ渡った広大な風景写真を見ると、爽やかな風や暖かな日差しを感じるとか、逆に、雨に煙る薄暗い森の中の写真を見ると、しっとりと湿った空気を感じるなど、写真を見ることで過去に似たような環境にいたことのある経験が思い起こされ、そういったことが感じられるということではないかと思います。

 一方、「その場の雰囲気」ということであるとすると、気温とか湿度とかではなく、結婚式やお祭りでたくさんの人の笑顔が写っている写真を見て、その場が非常に楽しそうであると感じるとか、逆に、夕暮れの街角にたたずむ人を写した写真を見て、寂しさのようなものを感じるということでしょう。「空気を読む」という表現がありますが、その「空気」の意味と似通っているかもしれません。

 前者は、物理的に感じ取れるもの(暖かいとか湿度が高いとか)であり、後者は心が感じるもの(楽しそうとか寂しそうとか)です。
 どちらも「感じる」という意味では共通しており、これらをいずれも「空気感」であるとするならば、次のようなシチュエーションの写真があったとしたら、その「空気感」というのは何と言ったらよいのでしょう?
  ・良く晴れた日に、
  ・どこまでも広がる草原で、
  ・鼠色のスーツを着たオジサンたちが、
  ・憂鬱な顔を突き合わせ、
  ・ぐったりした感じで、
  ・ミーティングをしている。

 このような例えは詭弁かも知れませんが、私が「空気感」に対する多くの説明に違和感を覚えるのはこのようなことが理由です。

 では、私にとっての「空気感」とは何かを説明してみろと言われてもうまく表現できず困ってしまうのですが、正直なところ、そもそも私自身が「空気感」という感覚なるものを明確に持っているかどうかも怪しいといったところです。

 「空気感」という表現をいつ、誰が用いたのかは知りませんし、当初、この言葉がどういうものを指して使われたのか、いろいろ調べてみましたが不明です。
 私自身、「空気感」というものが良くわかっていないので普段使うことはほとんどないのですが、かといって全く「空気感」の存在を否定しているわけではありません。だれが作った言葉かわかりませんが、「空気感」なるものがまったく荒唐無稽なものではなく、写真の中に何となく存在していると感じているのも事実です。

 うまく説明できないのですが、良くわからないながらも私が思う「空気感」というのは、その場の雰囲気とかではなく、「物理的に立体感のある空間が存在していることが感じられる」ということではないかと思っています。

 私が撮る写真のほとんどはフィルム写真ですが、私がフィルムに拘っている理由の一つはデジタル写真にはない奥行き感とか立体感があるからです。写真は所詮、二次元の世界ですが、同じ二次元でも奥行きを感じる画像と感じない画像があります。個人的には「空気感」というのはこの奥行き感や立体感と密接に関わっているのではないかと思います。

 しかし、奥行き感や立体感があれば空気感が感じられるかというとそうではなく、似ていながらもこれらはまったく別物だと思っています。
 例えば、テーブルの上に置いたさいころだけを撮っても立体感は感じるかもしれませんが、空気感を感じるようには思えません。

 すなわち、お互いに距離が離れているものの間には当然のことながら「空間」が存在するわけですが、写真の中にこの「空間」を感じられるかどうかということではないかというのが私の「空気感」に関する勝手な持論です。
 空間を感じさせる要素というのは一つではなく、色とかボケとか解像度、あるいは位置関係など、いろいろあると思うのですが、そういう要素が組み合わさって二次元映像の中に空間が生み出されたように感ずるということではないかと思うのです。
 近景の色ははっきりとしているが遠景は全体的に淡い色合いをしているとか、近くの被写体はバリバリに写っているが、遠くはボヤっとしてるとか、そういうことが複数積み重なることで空気感なるものが生まれるのではないかと思っています。
 最初に「空気感」という表現をした方がどのような意図をもっておられたかは存じ上げませんが、私がその言葉から感じ、自分なりに理解するのは以上のようなことです。

 「空気感」に対する私の見解が正しいとも思っていませんし、人によって様々な意見やとらえ方があるだろうということも十分に認識していますので、あくまでも私の個人的、かつ、何の裏付けもない勝手な意見ということで軽く流してください。まったくもって自分自身の感覚的な話しであります。

 とは言いながら、常に頭のどこかで「空気感」に対するモヤモヤした感覚が存在していることも事実です。いろいろと情報を集め、感覚的ではなく科学的に説明ができるようであれば、あらためて投稿してみたいと思っています。

(2021年6月8日)

#写真観 #空気感