第210話 写真にタイトルをつける(3) 主題からタイトルをつける「こぼうし流」

 以前、第99話と第100話で写真にタイトルをつけるということについて触れたことがあります。その中で、写真はタイトルをつけて完成するという持論を私は持っているということも書きました。また、私は自然風景や花を主な被写体にしているということにも触れ、あくまでも私流ではありますが、どのようにタイトルをつけているかということもご紹介させていただきました。もし、ご興味のある方は下記のページをご覧ください。

  「第99話 写真にタイトルをつける(1) タイトルがもたらす効果
  「第100話 写真にタイトルをつける(2) タイトルをつけるときの視点

 第100話で、主に風景写真や花の写真を対象にタイトルをつける手法の一つとして、「主題からタイトルつける」ということに言及していますが、これは私がタイトルをつける際にもっとも多く使っている方法で、今回はこれをさらにブレークダウンしてみたいと思います。
 主題をどうとらえるかはその人の感性によるところが大きいと思うので千差万別といった感じもしますし、私自身も明確に定義できているわけでもありませんが、その中から私にとって使用頻度の高い5項目に絞ってご紹介します。

 誤解のないようあらかじめお断りしておきますが、あくまでも私流のやり方であって世間一般に通用していることを保証するものではありません。また、スナップ写真などには当てはまらない場合も多いと思いますので、それらの点についてご承知おきください。
 タイトルのつけ方に決まりのようなものがあるわけではなく、その人なりに自由な方法でやるべきだと思っていますが、私はこんな方法でやっていますということのご紹介程度と受け止めていただければと思います。

その1:自然の摂理や営み、環境などを主題としたタイトル

 自然風景を対象に撮影に臨んでいると、自然界のふるまいのようなものに気づいたり驚いたり、あるいは感動したりすることがあります。それらはあたりまえ過ぎて普段は気がつかなかったり、自然界の時間軸がゆっくりであるがゆえに認識できなかったり、理由は様々ですが、ふとした時にそれらを感じたり気づいたりすると、人知の及ばない大自然の偉大さとか不思議さというものに接したような気持ちになります。
 自然の摂理というようなものであったり、何億年、何十億年という悠遠に繰り返されてきた営みであったり、そういったものを感じたとしたら、それはその場所を撮影し、写真にする際の主題となりうると思います。
 端正な姿の富士山や連なる山並み、きらめく海原などは美しい写真として仕上げることはそれほど難しくはありませんが、美しいだけで終わってしまっては少々もったいないわけで、その美しい景色の中に自然の摂理や大自然の営みといったものを感じ取り、それをタイトルにするだけで写真の持つ重みはずいぶん変わってくると思っています。

 下の写真はニッコウキスゲの大群落で有名な夏の信州霧ケ峰高原で撮影したものです。東の稜線から太陽が昇ってきて、半分ほど顔を出したタイミングでシャッターを切りました。ニッコウキスゲをはじめ、たくさんの花が咲いているお花畑越しの朝陽を撮ったものです。

「約束の光」

 この写真につけたタイトルは「約束の光」です。
 朝陽で東の空や雲が赤く染まったり、太陽の周囲に光輪のようなものが見えたりといった光景は理屈なく美しいのですが、それよりもここで感じたのは、前日の夕方に西の空に沈んだ太陽が、翌朝になって東の空から昇ってくるという宇宙の営み、しかも何十億年も繰り返し行われてきたであろう雄大さと不思議さのようなものです。そして、毎朝、1億5千万キロを旅して届けられる太陽の光と熱、それらを全身で受けて育つ植物たち、そういったものを表現できればという思いでつけたタイトルです。
 そのため、ニッコウキスゲなどの花たちはあえてシルエット気味にしていますが、ピントはこれらの花たちに合わせており、遠くの稜線はわずかにピントから外れています。
 また、この写真のタイトルを「霧ケ峰曙光」とか「朝焼けに染まる」とかにしてしまうと、何だかとてもチープな感じになってしまい、主題は「爽やかな高原の朝」といったところがせいぜいだと思います。

その2:人々の想いや願いなどを主題としたタイトル

 人間の営みと自然とは切っても切り離すことのできないもので、太古の昔から人間は自然とうまく共存してきたと言われています。近年はそういったものが崩れつつあるのかもしれませんが、それはともかく、自然を崇拝したり畏敬の念を持つということはわれわれ人間の根底にあるのだと思います。日本古来の神道は特定の開祖がいたり教義を持ったりしているわけではなく、自然界に存在する山や木、岩などあらゆるものに神が宿るという考え方だと言われていますが、まさに人間と自然が奥深いところでつながっているということに他ならないのではないかと思います。
 また、自然の景色を見ることによって過去の記憶が呼び戻されたりすることもあるでしょうし、大自然に抱かれることで心の安らぎを覚えたりすることもあると思いますが、こういったことも人間と自然のつながりの証であると思います。
 われわれ人間は無意識のうちに自然をよりどころにしたり依存したりしているのかも知れません。

 自然風景を撮影しているとそういった場所に出会うことも少なくありません。ご神木や磐座、あるいは水神などは代表的な例ですが、注連縄などで祀っていなくても巨木や巨岩、湧水を崇めたり、山や森全体を神域としている場所はたくさんあります。そして、そういった場所は特に地元の方にとっては神聖な場所であり、昔から大切にされてきた場所でもあります。
 このように、人々の心と自然との繋がりを主題にして、それをタイトルにするというのも効果的だと思っています。

 例えば下の写真、立派な染井吉野桜が満開になっている光景ですが、桜の木の下に百庚申があります。百庚申というのは、昔から村の安全や村人の幸せを願って建てた庚申塔が増えていって百基になったものを指すそうで、昔の人の願いが込められた場所ということだと思います。

「薄紅(うすくれない)の祈り」

 この写真には「薄紅(うすくれない)の祈り」というタイトルをつけました。
 立派な桜なのでそれだけでも美しい景色になるのですが、たくさん並んでいる庚申塔に覆いかぶさるように見える位置から撮影しています。ここにこの桜が植えられたのがいつ頃なのかはわかりませんが、たぶん、庚申塔を見守るように咲いてほしいという昔の人々の願いが込められた桜ではないかと思っています。
 今は訪れる人もほとんどいないようですが、庚申塔や桜に込められた祈りのようなものを表現できればとの思いからつけたタイトルです。いうまでもなくこの写真の主題は満開の桜でもなく百庚申でもなく、人々の祈りや願いということになります。
 なお、タイトルの「薄紅」に読み仮名をつけたのは「うすべに」と読まれたくなかったからです。「うすべに」と「うすくれない」ではずいぶん印象が異なります。

その3:植物や動物の生きざま、命の活動を主題としたタイトル

 自然界にはたくさんの植物が自生しており、その環境の下で昆虫や動物なども生息しているわけで、人間の手が加わらない中で見事な調和を保ってそれぞれが生きています。むしろ、それらを破壊しているのが人間かも知れません。
 私は動物や昆虫を撮ることはほとんどありませんが、自然界で生きている植物を撮る頻度はかなり多いです。植物の生きている時間軸は人間やその他の動物に比べるとかなりゆっくりで、変化している様子を肉眼で認識するのはまず困難です。ある時間をおいてみたときに、前回との差が感じられるというのが精一杯といったところです。
 一見、動きが感じられない植物ですが、確実に命をつなぐ活動をしているということを感じることがあります。植物は花を咲かせたり実をつけたり、あるいは紅葉したりと、季節によって人間の眼を引く姿を見せてくれたりもしますが、そういった華やかな面だけでなく、何気ないところにも命の息吹があって、植物の逞しさとか生命の神秘といったようなものを垣間見たりします。

 そういった点では動物の方がわかり易いのかもしれませんが、動物であれ植物であれ、それらの生きざまとか命をつなぐ活動とか、そういったものを主題として撮るというのが私は好きです。
 どういったところに生命観のようなものを感じるかは人によっても異なるであろうし、意識して見るのと無意識に見るのとでは当然見え方が変わってきますが、命が息づいているということを表現できる写真が撮れればと常々思っています。

 下の写真は苔むした倒木の間から芽を出してきたハイイヌガヤです。

「静かな鼓動」

 ハイイヌガヤはイチイ科の常緑樹ですが成長が非常に遅いらしく、しかも、背丈は1~2mほどにしかならない低木です。また、多雪地帯に育成するため、冬は何か月も雪の下に埋もれてしまいます。
 上の写真の左下に黄緑色した小さなハイイヌガヤがありますが、昨年、もしくは今年に芽を出したものと思われます。この小さな芽が隣にあるハイイヌガヤくらいまで育つのには何年かかるのかわかりませんが、我々の時間軸からすると止まっているのではないかと思えるほどゆっくりとした速度です。
 それでも、この小さな新芽はこの先もこの場所で少しずつ少しずつ育っていくであろうし、そうした植物の力強さや逞しさ、命の鼓動のようなものを感じます。

 この写真につけたタイトルは「静かな鼓動」です。
 もちろん、我々人間の心臓のように鼓動など聞こえるはずもありませんが、確実に生きて呼吸をしており、我々にはわからないとてもゆっくりとした速度で成長しているはずであり、それを主題としてつけたタイトルです。
 単に渓流沿いの景色としてとらえるだけでなく、そこにある植物たちのドラマのようなものを伝えられればという思いです。

その4:その場の雰囲気や感じるものを主題としたタイトル

 基本的に写真というのは光を記録するわけですが、実際に被写体が存在している場所には光だけでなく、音や熱や匂いであったり、風などのように触覚に訴えるものがあったりします。これらの要素は物理的に写真に写し込むことはできないわけです。
 しかし、目に見えるもの以上に心を揺さぶるもの、感性に訴えかけるものがあることも少なくありません。満開のお花畑のようなところにいれば花の香りが漂っているかも知れないし、きれいな水が流れている渓流では心地よい水音がしているかも知れません。そういった視覚以外の感覚で受ける要素が加わることで、目の前に広がる景色や被写体というのは全く別物のように感じられるわけです。それは、実際にその場に身を置いた人でなければ本当には理解しえない感覚です。
 このように、当事者であるからこそ得ることのできるその場における感覚であったり雰囲気であったり、そういうものを主題としてタイトルにし、伝えるというものです。

 例えば、澄んだ青空と満開の菜の花畑が広がっている清々しい春の景色を写した下の写真、これを美しい春の景色というだけで終わらせてしまうのではなく、そこに撮影者しか知りえない視覚以外の感覚で得た情報を加えるということです。

「光風渡る丘」

 この写真につけたタイトルは「光風渡る丘」です。

 光風というのは晴れた春の日に爽やかに吹く風のことで、太陽の光が草木などを輝かせ、そこを通り抜けてくる爽やかな風を指すと言われています。草や木々の葉を揺らすビュービューと吹く強い風ではなく、肌に感じるくらいの優しい風といったところでしょうか。花も木の枝も揺れていないので、このような風を一枚の写真だけで伝えるのは困難です。
 この写真では澄み渡った青空や満開の菜の花の美しさもさることながら、爽やかな風が吹く清々しくて気持ちの良いこの場所、この空間というものを伝えたいという意図から、青空とか菜の花とか春という単語は含めずにつけたタイトルです。青空や菜の花ということはあえて言わずとも見ればわかることですから、それらも含めて撮り手が感じたことを主題にし、タイトルとして表現しています。

その5:自然現象や事象を主題としたタイトル

 これは、「その1」で書いた自然の摂理や営みと似ているように思われるかもしれませんが少しニュアンスが異なっていて、光や風、あるいは音など、自然がある瞬間に見せてくれる表情と言ったらよいのかも知れません。平たく言うと、太陽の光があたって花や葉っぱが輝いたとか、風が吹いて木の葉が揺れたとか、水面に水滴が落ちて波紋が広がったとか等々、挙げたらきりがないほど自然界は多様な表情を見せてくれます。
 このような瞬間の、あるいは短い時間に生じる現象や事象というのは広い範囲にわたって生じることもあれば、ごく限られた狭い範囲にだけ生じることもありますが、それらを主題としてとらえようというものです。
 これらの現象や事象は怪奇現象のようなミステリアスなものでない限り、写真という一枚の静止画を見ただけで理解できることが多いと思います。ですので、発生している現象や事象をそのままタイトルにするのではなく、そこから撮り手が何を感じ取ったかということを表現することが必要だと思っています。

 下の写真は紅葉した数枚のカエデの葉っぱに太陽の光があたってオレンジ色に輝いているところを撮ったものです。

「光の通り路」

 木漏れ日が数枚の葉っぱに差し込んでいる状態というのは写真を見ただけですぐにわかると思います。画の大半を黒色が占めているので、大きな木の下あたりで撮影したであろうことも想像に難くありません。
 この写真に例えば「木漏れ日」とか「輝く紅葉」とかというタイトルをつけても、それは見ればわかるといった感じであまりパッとしません。

 そこで、この写真には「光の通り路」というタイトルをつけました。
 上の方にある葉っぱの隙間から入ってきた光がまっすぐ地上に向かって降りてくる、偶然その途中にあった数枚の葉っぱにあたってオレンジ色に輝くという現象が出現した、目に見えない光の通り路が紅葉によって浮かび上がったという主題です。
 言うまでもなく主被写体は紅葉したカエデですが、表現したかったのは光です。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 写真にタイトルをつけようがつけまいが写真そのものが何ら変わるわけではありません。ですが、タイトルがあることで写真の見方、受け取り方が変化するのも事実です。
 また、冒頭でも触れたように、タイトルのつけ方にルールや決まりのようなものがあるわけではなく自由につければ良いと思っていますが、せっかくつけるのであれば効果的なタイトルの方が望ましいのは言うまでもありません。
 今回は写真の主題に基づいたタイトルという範囲に絞っていますが、主題が明確であればタイトルをつけることはそれほど手間のかかることではないと思っています。ただし、主題をそのままタイトルにするのではなく、それを別の言葉やフレーズで表現するひと工夫が必要だと思います。いい表現が思いつき、気の利いたタイトルをつけられたときは自分の写真もちょっと違って見えてくるから不思議なものです。

(2026.7.26)

#写真観

第209話 写真をプリントするということ プリントしてこそ「写真」という思い

(2026.7.1)

#写真観 #額装

第200話 それでも大判カメラを使って撮影をする理由(わけ)

(2025.11.28)

#写真観 #大判フィルム

第197話 なぜ、写真は思ったように撮れないのか?

(2025.8.27)

#写真観

第190話 写真に存在するストーリー(物語)性について思うこと

(2025.2.9)

#写真観

第184話 AIが写真をつくる時代  写真とはいったい何なのか?

#写真観

第114話 大判写真と35mm判写真は何がどのように違うのか その2:画作りへの影響

 今から10ヶ月ほど前、2021年8月に同じタイトルのページを書きました。大判と35mm判とではフィルム面の大きさが異なることに起因するいくつかの違い(階調や被写界深度、ボケなど)について触れてみました。
 今回は前回とは少し違った視点、構図などの画作りという点から大判写真と35mm判写真の違いについて触れてみたいと思います。
 なお、構図や画作りというのは、階調や被写界深度などのような物理的な違いではなく、あくまでも個人的な主観によるものですので客観的な比較というわけにはいきません。あらかじめご承知おきください。

アスペクト比の違いによる構図決めへの影響

 大判フィルムと35mm判フィルムの違いは大きさ(面積)もさることながら、アスペクト比(縦横比)も大きく違います。一口に大判と言ってもサイズは何種類もありますが、ここでは現時点で一般的に手に入れることができる4×5判を対象にします。

 4×5判のフィルムを横位置にした時の縦横の比率は1:1.26(96mmx121m)です。
 これに対して35mmフィルムの場合は1:1.5(24mmx36mm)ですので、大判フィルムに比べるとかなり横長(縦に置いた場合は縦長)になります。大判フィルムに比べて長辺が約19%伸びていることになります。
 この値は結構大きくて、大判フィルムの左右両端がそれぞれ11.5mm、長くなった状態です。わかり易く図にすると下のようになります。

 このアスペクト比の違いが、撮影するうえでの画作りにものすごく大きな影響があると感じています。
 私が4×5判や中判の中でも67判を多用している理由は、フィルム面が大きいことによる画像の美しさもありますが、四切や半切、全紙などのアスペクト比に近いというのも大きな理由です。特別な意図や事情がない限り、撮影したものをできるだけ切り捨てず(トリミングせず)にプリントしたいというときに、アスペクト比が近いというのはとてもありがたいことです。
 最近ではA4とかA3というサイズが増えてきていて、これは35mm判フィルムのアスペクト比に近いので、フィルムにしてもデジタルにしても35mm判(フルサイズ)を使う場合にはその方が都合が良いわけです。

 そういった意味ではどちらが良いということではなく、慣れの問題と言えると思いますが、アスペクト比に対する慣れというのはとても重要なことだと思っています。

 上でも書いたように、横位置に構えた場合、4×5判に比べて35mm判の横方向は19%も長いわけですから、かなり広範囲に渡って画面に入り込んできます。縦(上下)方向を基準に4×5判のアスペクト比1:1.26の感覚で画面構成しようとすると、左右が広すぎて収まりがつかなくなってしまいます。
 逆に横(左右)方向を基準にすると上下が切り詰められたようで、とても窮屈な感じを受けます。

 例えば日の丸構図のように、主要被写体を画中央に配置した場合、4×5判だと左右の空間は上下のそれと比べて少し広い程度ですが、これが35mm判だと左右の空間がとても広くなります。そしてこれは主要被写体を中央に配した場合に限らず、三分割構図などのように左右のどちらかに寄せた場合でも同じで、反対側の空間が広くなりすぎて、うまく処理しないと余計なものが写り込んだり、無意味な空間ができたりしてしまいます。

 これは中判フィルムを使った69判の場合もアスペクト比が35mm判とほぼ同じなので、同様のことが起こります。

 一方、35mm判のアスペクト比で構成した画を4×5判のアスペクト比に収めると、左右がカットされて窮屈に感じたり、左右を切り詰めなければ上下が広くなりすぎ、締まりのない写真になってしまうと思います。

 実際に撮影した写真を例にとってみるとこんな感じになります。
 下の写真は奥入瀬渓流で撮影したものですが、4×5判のアスペクト比で画を構成したものです。

▲アスペクト比 1:1.26(4×5判相当)で撮影した場合

 これに対して、上下方向の範囲を変えずに35mm判のアスペクト比で撮影したのが下の写真です。

▲アスペクト比 1:1.5(35mm判相当)で撮影した場合

 どちらの写真が良いとか悪いとかではなく、また、好みもあると思いますが、写真から受ける印象がずいぶん違うということです。
 当然、左右が広い分だけ35mm判のアスペクト比の方が横の広がりを感じ、パースペクティブの影響で奥の方から流れてきているように見えます。広さや動きを表現したりするのに向いていますし、ダイナミックな画をつくることができます。
 一方、4×5判のアスペクト比の場合、横の広がりは抑えられてしまいますが、流れにボリューム感が生まれているように思います。
 ただし、この写真を例にとると、35mm判アスペクト比の場合は左右が広く写るので川の両岸、特に右岸(画面左側)の処理がうまくいってない印象を受けます。反対に、左右が広く取り入れられているので全体の様子がわかり易いと言えるかも知れません。

 こうして2枚を比べてみると、35mm判アスペクト比の場合は広がりや力強さを表現し易いフォーマットであるのに対して、4×5判アスペクト比の場合は全体に落ち着いた感じ、安定した感じを受けるフォーマットのように感じます。その分、35mm判アスペクト比の写真に比べる物足りなさを感じるかも知れません。
 ですが、いずれにしても、同じ場所を撮影してもアスペクト比によって写真から受ける印象はずいぶん異なるということです。
 このように、35mm判と4×5判の写真を比較すると、階調や被写界深度、ボケなどによる違いも大きいですが、アスペクト比の違いはフレーミングや構図の仕方にも影響を及ぼすので、数値では表せませんが非常に重要な要素であると思います。

 4×5判や67判で撮影していると、「もうちょっとだけ、横の広がりが欲しい」と思うこともありますが、決められたフォーマットの中にどう収めるかを考えるのも重要なプロセスかも知れません。

写真の四隅に対する気配りの違いによる影響

 フレーミングや構図を決めるというのは35mm判であろうが大判であろうが、撮影における欠かせないプロセスの一つですが、この際に、フォーカシングスクリーンの四隅に神経をいきわたらせる度合いが、大判カメラの方が大きいような気がしています。
 一般的に主要被写体は中央部、もしくは中央部付近に配置することが多く、極端に隅の方に配置することはそれほど多くありません。そのため、どうしても中央部周辺には意識が向きますが、周辺部、特に四隅には意識が向きにくいという傾向があるように思います。

 35mm判カメラの場合、一眼レフカメラにしてもレンジファインダーカメラにしても、ファインダーをのぞき込めば全体が容易に見渡せ、ピントの状態も一目でわかります。
 これに対して大判カメラの場合、特に短焦点レンズの場合はスクリーンの周辺部が暗くなってしまったり、肉眼だけでは正確なピントの状態がわからないなど、全体を一目で確認することが困難な場合が往々にしてあります。画面の周辺部に余計なものが写り込んではいないか、画全体のバランスを欠いていないか、ピントは大丈夫か等々、いろいろなことを気にしながらスクリーン全体を何度も見直しします。

 このような手間のかかるプロセスを経ることによって、結果的に大判カメラで撮影した方が四隅に神経が行き届いた写真になることが多いというのが私自身の実感です。
 もちろん、35mm判カメラでも四隅に注意を配ることはできますが、全体が容易に見渡せるがゆえに、大判カメラほどには気を配らずにシャッターを切ってしまうということがあるということです。

 周辺部に気を配らずに撮った写真を見ると、撮影時点では気がつかなかったものが写っていたり、余計な空間ができていたり、全体的に何となく締まりのない写真なってしまうことがあります。
 主要被写体さえしっかり写っていれば良しという考えもありかも知れませんが、やはり周辺部に締まりがないと主要被写体のインパクトも弱くなってしまいます。

 そしてこれは、前の節で書いた画作りとも密接な関係があると思っています。
 つまり、35mm判の方がアスペクト比が大きい分、中心部から四隅までの距離が長くなるわけで、そのため、より意識を向けないと四隅が甘くなってしまう可能性が高まってしまうということです。
 35mm判カメラと大判カメラの構造的な違いによって、大判カメラの方が周辺部に意識を向けざるを得なくなるということ、また、何しろフィルム代が高いので失敗は許されないという意識が働くのかも知れませんが、思いのほか、写真の出来には大きな影響を与えているように思います。

ピントとボケのコントロールによる影響

 大判カメラの大きな特徴はアオリが使えることですが、それによってピントを合わせたりぼかしたりということが自由にできます。
 35mm判の一眼レフや中判一眼レフのカメラやレンズは、ごく一部の製品を除いてはレンズの光軸が固定されています。これに対して大判カメラは、意図的に光軸をずらすことでピントのコントロールを自在に行なうことができます。

 代表的なのが風景撮影でよく使われるパンフォーカスですが、近景から遠景までピントが合った状態にすることができ、視覚的にとても気持ちの良い写真に仕上がります。
 また逆に、レンズの絞りを目いっぱい開いてもボケてくれないような状況でも、アオリを使うことで大きくぼかすこともできます。

 下の写真は福島県にある滝を撮ったものです。

▲Linhof MasterTechnika 45 FUJINON CM105mm F22 16s ND8使用

 アオリを使って撮影してるため、川の中にある足元の石から奥の滝まで、ほぼパンフォーカスの状態です。

 焦点距離105mmのレンズを使い、絞りはF22で撮影していますが、絞り込んだだけではここまでパンフォーカスにはなりません。
 このようにピントやボケをコントロールすることで、35mm判カメラで撮影したものとは雰囲気の異なった写真にすることができます。

 また、ボケをコントロールすることで主要被写体を浮かび上がらせたり、写ってほしくないのだけれど画の構成上、どうしても入ってしまうものをぼかすことで目立たなくしてしまう、というようなこともできます。

 いまはレタッチソフトでかなりの加工がきてしまうので、ボケのコントロールもパソコン上で自由自在といったところですが、フォーカシングスクリーン上で意図したボケの状態を作り出す面白さというのが大判カメラにはあると思います。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 今回触れた三つの違いのうち、アスペクト比に起因する画作りの違いと、画の四隅に対する気配りの違いというのは物理的なものではないので、撮影の時点で注意をすれば大判カメラであろうと35mm判カメラであろうと同じような状態にすることができます。ですが、やはりアスペクト比に対する慣れというものは影響力が大きく、わかってはいても不慣れなアスペクト比ではなかなか思うように撮れないことも多いというのが正直なところです。
 フィルムフォーマットに縛られてしまうと本末転倒ですが、フィルムフォーマットを活かした画作りは意識すべきことだと思います。

(2022.7.1)

#アオリ #写真観 #構図

第111話 美しい風景なのに、撮影したらとってもつまらない写真に...

 私がリバーサルフィルムを多用している理由は、何と言っても色の再現性というか、美しい発色によるところが大きいです。もちろん、肉眼で見たのとまったく同じ色合いになるわけではなく、そのフィルムなりの特性があるわけですが、ポジ原版を見た時の美しさは格別のものがあります。

 今から十数年前に製造を終了してしまいましたが、コダック社製の「コダクローム」というリバーサルフィルムがありました。発色現像液中にカプラーを混入して処理する「外式」という方式のフィルムで、それが理由なのかどうかはわかりませんが、とてもコクのある発色をするフィルムでした。日本国内でも現像できるラボは限られており、現像が上がってくるまでの時間も他のフィルムに比べて長くかかりましたが、他のフィルムでは見られない発色に魅了されて使い続けていました。

 これに対して富士フイルムの製品はどちらかというと鮮やかな発色をするフィルムで、特に風景写真用として愛用している人はたくさんいました。もちろん、光の状態や気象条件などによって異なりますが、実際に肉眼で見るよりも綺麗に写るという表現も決して過言ではないという印象です。フジクロームというフィルムの鮮やかな発色の傾向は製品がモデルチェンジされるごとに強化された感じですが、ベルビアというフィルムをピークに、それ以降は抑えられたように思います。
 とはいえ、現行品であるベルビア100やプロビア100Fも十分に鮮やかな発色をするフィルムであることには違いありません。その鮮やかさゆえか、現像後のポジ原版をライトボックスで見ると、撮影時の現場の映像が見事によみがえってくるという感じです。

 私が写す被写体は山とか渓谷が多いのですが、四季折々の美しさがあり、あっちもこっちもシャッターを切りたくなります。肉眼で見てももちろん綺麗なのですが、カメラのファインダー越しに見るとまた違った美しさがあります。肉眼だとほぼパンフォーカス状態で見えますが、ファインダー越しだとピントの合う範囲は限られてしまい、ボケの中に被写体が浮かび上がっているように見えることが理由の一つかもしれません。
 被写体に振り回される、という言い方をすることがありますが、まさにそれに近い状態になってシャッターを切りまくってしまうなんていうことも少なくありません。いい写真が撮れているに違いないという、何の根拠もない変な自信のようなものに後押しをされながら、現像後のポジ原版を頭の中に描きながらバシバシと...

 しかし、そういう状態で撮影したものに限って現像後のポジを見ると、こんなはずではなかったと打ちのめされることがしばしばあります。

 例えば下の写真です。

 これはずいぶん前に撮ったものですが、新緑がとても鮮やかで、青空とのコントラストも川の流れも美しく、まさに初夏の風景といった感じの場所でした。しかし、写真を見ると全くどうってことありません。新緑の山とか青空の色は確かに綺麗なのですが、写真としては何の魅力もないというか、「あ、そう。で?」という感じです。撮るときはそれなりに手ごたえのようなものを感じていたのではないかと思うのですが、出来上がりとのギャップの大きさに愕然とした記憶があります。
 このようなことは何も新緑の風景に限ったことではありません。一面に咲くお花畑のようなところでも起きるし、紅葉の風景でも雪景色でも起こりえます。
 こうした駄作はポジ自体を廃棄してしまっていたのですが、なぜかこのポジはしぶとく残っていました。

 なぜこのようなことが起きるのか、自分で撮影をしておきながらこういった写真を見るたびに考えされたものです。フレーミングが悪いとか構図がなっていないといえばそれまでですが、そんな一言で片づけられるのとはちょっと違うと思います。

 肉眼の時は3次元の状態で見ていますが、これが写真になると当然、2次元になってしまいます。しかも、二つの眼で見ているのに対してカメラのレンズは一つですから、奥行きに対する情報が欠落してしまうわけで、これがつまらない写真を作り出す大きな原因ではないかと思われます。
 一方で、同じ場所でもステレオ写真にしたものを見ると立体感が感じられ、普通の写真を見た時とは全く違った風景に見えます。これは、2枚の写真を同時に見ることで、擬似的に3次元に見えることが理由ではないかと思います。

 これによく似た現象で、階段を撮影した写真を見た時に、その階段が上っているのか下っているのかわからないということがあります。これも3次元から2次元になることで多くの情報が欠落してしまうことによって、上りか下りかわからなくなってしまうのだろうと思います。

 しかし、同じ風景でもこれを動画(ビデオ)で撮影したものを見ると全く違っており、肉眼で見た時の印象に近い感じに、もしかしたら肉眼以上に美しく感じることもあります。私は動画撮影はほとんどやることがないのですが、動画サイトにアップされている映像を拝見するとそのように感じます。動画は動きがあるので、映像は2次元であっても動きが加わることによって奥行きを感じられるからではないかと、勝手に想像しています。

 一概に言い切ってしまうことはできないとは思いますが、やはり写真には奥行き感というか、立体感のようなものが必要で、それが著しく欠如している写真というのは肉眼で見たものとのギャップが大きく感じられるのだろうと思います。
 上の写真も手前の川から遠景の山まで、実際には奥行きがあるのですが、それがまったく感じられません。例えば、もう少し右側、または左側の位置から撮影して、川が斜めに配置されるような構図になっていればもう少し奥行き感が出て、多少は見栄えのする写真になったのではないかと思います。

 このように、被写体は素晴らしいのにも関わらず、これまで駄作をどれほど量産してきたことか、頭の中でお金に換算してみるとなんだか凹みます。この写真を撮った頃はフィルムも比較的安価に購入できたのでお気楽なものでしたが、昨今のようにフィルム価格が高騰していると笑って済まされなくなります。

 しかしながら、こんな駄作を量産してきたおかげで、シャッターを切る前につまらない写真になるか、それともそこそこ見栄えのする写真になるかを考えるようになったのは怪我の功名と言えるかもしれません。
 ここは綺麗な場所だからとか、風光明媚だからということで何とかフィルムに記録しようと思っても、なかなかフレーミングや構図が決まらないということがしばしばあります。そんなときはむやみにシャッターを切らずにじっくりと風景と対峙してみるのも大事なことかと思っています。

 余談ですが、オールドレンズという言葉が使われるようになって久しい感じがします。オールドレンズに明確な定義はないようですが、オートフォーカスが出回る以前のマニュアルレンズで、概ね、1970年以前に作られたレンズを指すようです。
 オールドレンズの人気が高まってきた理由の一つは特徴的なボケであったり、フレアやゴーストが起こり易いとか、全体的に彩度やコントラストが低めといったことにより、今のレンズにはない独特の写りをすることだと言われておりますが、それがインスタ映えするなどということで使う人が増えてきたのだろうと思います。

 こういった特徴的なボケやフレア、低コントラストなどは、今のレンズに比べて性能が低いことで生じるものですが、実はこれによって写真に奥行き感や立体感が生まれてくるのではないかと思っています。つまり、主被写体とそれ以外のところの描写に大きなギャップがあり、それによって主被写体が浮かび上がってくるように見えるのだろうということです。
 独特のボケ味ももちろん面白いですが、写真全体から感じられる奥行きのようなものがあり、今の高性能のレンズにはない描写になるというのがオールドレンズの魅力として受け入れられているのではないかと思っています。
 やはり、写真には奥行き感とか立体感というのは重要な要素なのだと感じます。

 オールドレンズについては、機会があればあらためてつぶやいてみたいと思います。

(2022.5.20)

#フレーミング #写真観 #構図

第100話 写真にタイトルをつける(2) タイトルをつけるときの視点

 前回は、写真にタイトルをつけることによる効果について触れましたが、今回は、実際に写真にタイトルをつける際に意識すること、もう少し具体的に言うと、どのような視点でタイトルを決めるかということについて進めてみたいと思います。
 私は今回ご紹介するように、5つの視点のうちのいずれかでタイトルをつけることが多いです。あくまでも私の個人的な視点ですので、もちろん他にもたくさんの視点があると思いますが、参考になればと思います。

光や色、音、匂いなどからタイトルをつける

 写真というのは光を画像として記録しているわけですから、当然のこと、光とか色を視覚的に認識することができます。カラー写真であれば様々な色であり、モノクロ写真であれば濃淡として表現されます。また、光芒とか光彩などのように、光そのものが感じられることもあります。

 さらに、光のように直接的に認識できるものだけでなく、画像から、その場に聞こえているであろう音とか匂いとか、そういうものも間接的に感じることができます。例えば滝の写真であれば、流れ落ちる水の音を感じるでしょうし、梅の写真を見ればほのかな香りを感じると思います。

 こういった光や色、音、匂いなどをタイトルのもとにすることは比較的多く、タイトルにし易いかも知れません。
 例えば、木々の間から差し込む光芒が印象的だった場合、それをタイトルに加工することで、より印象が強まります。ただし、タイトルを「光芒」などのようにそのまま使うのではなく、表現を変えるなどのひと工夫が必要です。

 下の写真は、ちょうど今頃に咲いている「ロウバイ」を撮ったものです。

 この写真のタイトルは「木陰のぼんぼり」としました。黄色のロウバイの花に光が差し込んで、まるで花が自ら発光しているような感じです。
 ロウバイの印象がより強まるようにと思い、逆光になる位置からの撮影で、背景は暗く落ち込むように陰になっている場所を選んでいます。
 光り輝いている小さな花が、まるでひな祭りのぼんぼりのように感じられたのでこのようなタイトルにしたのですが、これを「木陰の提灯」としてしまうと雰囲気がそがれてしまう感じです。また、ぼんぼりは漢字で「雪洞」と書きますが、漢字よりも平仮名の方が優しい感じになると思います。

擬人化してタイトルをつける

 このタイトルのつけ方は一般的な風景よりも、花とか木とかの写真に対して使うことが多いです。簡単に言うと、花や木を人間に見立てて、姿かたちや仕草、立ち居振る舞い、表情などに例えるというやり方です。特に花の場合は人間に例え易く、そういう視点で見るとまるで人間と同じように見えてくるので不思議なものです。

 チューリップやヒマワリ、ユリなどが被写体になることは多いと思いますが、咲いている姿が躍っているようだとか唄っているようだと感じた経験のある方もたくさんいらっしゃると思います。そういった人間の姿や言動を重ね合わせて、それをタイトルにします。
 踊っているように見えるとすれば、「踊り子」とか「バレリーナ」などという言葉が連想されますし、唄っているように見えるところからは「熱唱」とか「コーラス」などという言葉が浮かんできます。
 「踊り子」などは写真によってはそのままタイトルになるような場合もあると思いますが、ちょっと味付けをすることで、より印強いタイトルにすることができます。

 紅葉し始めたカエデの葉っぱを撮ったのが下の写真です。

 タイトルは、「初めてのルージュ」です。

 まるで塗り絵でもしたかのように、しかも一枚だけが色づくのはあまりないと思うのですが、その色づいた赤があまりに鮮やかだったので、初めて口紅を塗ってみた女性に例えたタイトルです。ちょっとはみ出してるように見えるところから、「初めてのルージュ」としてみました。

 また、この写真にはキャプションもつけてみました。
 「ようやく色づき始めたカエデが一葉 まだお化粧には慣れていないようです」

 タイトルだけでは伝わりにくいかなと思ったこともありますが、ほのぼのとしたユーモラスさを表現できればと思ってつけたキャプションです。
 自然界は時として予想もしなかった姿を見せてくれることがありますが、そういう光景も擬人化することで写真を引き立てるタイトルになることもあると思います。

主題からタイトルをつける

 写真は主役と主題があるとよく言われます。主役と主題が同じということもまれにはあると思いますが、主役と主題は別のものであることの方がはるかに多いのではないかと思います。
 例えば、桜を中心となる被写体として撮影した写真の場合、主役は桜であっても主題は全く別物です。雪の残る山を背景に咲いている風景であれば、「春の訪れ」というようなことが主題になるかも知れませんし、風に散っていく桜の写真であれば、「儚さ」のようなものや「春から初夏へ」というようなことが主題になるかも知れません。
 要するに、桜の写真を通して何を伝えたいかによって主題は変わってきます。

 写真を撮影するときに主題が明確になっている場合もあれば、あとで仕上がった写真を見て主題が決まる場合もあるというのは前回にも触れた通りです。撮影の前に主題がはっきりしていたほうが作画意図が明確になるのは言うまでもありませんが、あとから主題を決めるのが悪いとも思いません。
 いずれにしても、その写真から何を伝えたいか、それを明確に持つことは大切なことで、それをタイトルにするというやり方です。

 長野県と群馬県の県境にある白根山を撮影しました。

 この写真には、「天翔ける」というタイトルをつけてみました。

 撮影したのは雨が降った翌日の早朝で、空気がとても澄んでおり、はるか向こうに富士山が見えます。筋状になっている雲も含めてとにかく空がきれいで、白根山と同じくらいの高さから撮影していることもあり、まるで空を飛んでいるかのような錯覚さえ覚えます。
 この写真の主題は限りなく広がる空の美しさや雄大さ、そしてその場に身を置いている爽快さのようなものです。それを、そのとき自分が抱いた感覚をタイトルにしてみました。

 もし、空ではなく煙が立ち昇っている白根山に主題を感じたならば、構図も違ってくるでしょうし、当然タイトルも全く違ったものになります。

イメージや印象からタイトルをつける

 このタイトルのつけ方はちょっと説明しずらいのですが、被写体、あるいは仕上がった写真を見た時に全体から受ける印象をタイトルにする方法です。
 同じ被写体でも肉眼で見た時とファインダー越しに見た時、そして仕上がった写真を見た時では受ける印象はずいぶん違うことがありますが、いずれにしても全体から受けるイメージや印象を言葉にするといったやり方です。前の3通りのやり方のように、この部分がというよりは全体をボヤっと見た感じとでも言ったらよいのか、とにかく感覚とか感性に頼るという感じです。
 被写体として何が写っているかということよりも、全体の色とかコントラストとか、そういうものに影響されると思います。

 下の写真はニガナという小さな花を撮ったものです。

 「幸せの予感」というタイトルは、この写真全体から受ける印象をもとにしています。
 また、このようなタイトルは撮り手の感性によるところが大きいので、見る人はまったく違った印象を持つ可能性が大です。そのため、キャプションをつけています。

 「梅雨の合間の青空に黄色が映えて、何かいいことがありそうな気がします」

 このように、キャプションをつけることで撮り手が感じていることを伝える補助にはなりますが、だからと言って誰しもが同じように感じてもらえるわけではありません。理解不能などと思われてしまうことも考えられるということを承知しておいた方が良いと思います。

 とはいえ、このタイトルと写真がぴったりと合ったときは、それなりの訴求力があると思います。

説明的にタイトルをつける

 さて、タイトルのつけ方の5つ目ですが、これは写っている状況を説明するようなタイトルにするという方法です。
 説明するといっても、誰が見てもわかるようなことをそのまま表現しても効果的なタイトルにはなりません。例えば、湖のほとりに菜の花が咲いている写真に、「湖畔に咲く」という説明的なタイトルをつけても、言われるまでもないといった感じになってしまいます。

 偶然見つけたミズバショウの群落を撮った写真です。

 タイトルは「雪消水の潤い」です。
 雪消水(ゆきげみず)とは雪が解けて生じた水のことですが、その大量の水がこの場所に流れ込み、ミズバショウが育つ環境を作っているということを説明しようと思ってつけたタイトルです。
 湿地にミズバショウが咲いているのは写真を見れば明らかですが、それは冬の間に降った雪によってもたらされているということを伝えようと思いました。

 写真に写っている状況を直接的に説明するだけでなく、その状況を作り出すもとになっているものやそこに至るまでの経緯などを説明するようなタイトルにすることで、見る人にイメージを膨らませてもらうことが出来ると思います。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 自分で撮った写真にタイトルをつけて、それを何度も眺めていると、しっくりくるものもあればちょっと違うなと思うものもあります。もし、違和感があればつけ直してみるも良し、また、違った視点でタイトルを考え直してみるも良しで、自分の写真を見直す良いきっかけになるのではと思っています。
 今回は日頃、私が写真にタイトルをつけるときに用いているやり方をご紹介しましたが、タイトルやキャプションのつけ方は自由です。自分の感性でつけるのがいちばんだと思いますが、できれば写真を生かすようなタイトルにしたいものです。

(2022年2月21日)

#フレーミング #写真観 #構図 #額装

第99話 写真にタイトルをつける(1) タイトルがもたらす効果

 デジタルにしても銀塩にしても、撮影した写真はパソコンやスマホで見たりプリントして観賞したりしますが、コンテストや写真展に出す以外はタイトルもつけられずに放っておかれることが多いのではないかと思います。
 しかし、写真はタイトルをつけて初めて完成するものだと思っています。もちろん、自分だけで観賞する写真にタイトルなんか必要ないという考えもあるかと思いますが、タイトルをつけると自分で撮った写真がちょっと立派になったように感じるのも事実です。撮影した写真すべてにつけることはありませんが、お気に入りの写真にはタイトルをつけてあげたいと思います。
 私が自分で撮影した写真にどのようにタイトルをつけるかということについて、私なりの考え方、やり方をご紹介したいと思います。あくまで私流であるということをご承知おきください。

「タイトル」をつけると写真が輝いてくる

 写真にタイトルをつけずに放っておく最大の理由は「面倒くさい」ということではないかと思います。タイトルをつけるというのは、管理番号や識別番号を振るように機械的にできるわけではなく、それなりに時間もかかるので面倒くさいと感じるのも確かです。
 また、タイトルのつけ方に決まり事があるわけではないので、どのようなタイトルをつけようと自由なのですが、かと言って何でもつければ良いというものでもなく、やはり写真が生きるタイトルにするのが望ましいわけです。

 一つの例として、赤いバラを撮影した写真を想定してみます。この写真に「薔薇」とか「赤いバラ」というようなタイトルがつけられているのを目にすることがあります。しかし、バラの写真を見てヒマワリだとかスミレだと思う人はいないでしょうし、赤いバラを白いバラだと思う人もまずいないでしょう。そのようなことはわざわざ言われなくてもわかるわけですから、タイトルとしては無意味とは言いませんが、決して効果的なタイトルとも言えません。
 また、バラは数万種もあると言われている一つひとつに固有の名前(有名どころでは、ピースとかクイーン・エリザベスとか)がつけられているようですが、それらをタイトルにつけても、植物図鑑ではないのでやはり効果的なタイトルとは思えません。

 写真というのは見る人にとっては二次元の画像だけですから、撮り手が撮影の際に持っていた情報のごく一部しか伝えることができません。それを補うことができるのがタイトルだと思います。
 撮影の際に見たことや聞いたこと、感じたこと、体験したこと、そして写真を通して伝えたいことなどをタイトルとして表現することで、見る人は画像だけでは感じ得ないその場の情景や雰囲気などをイメージすることができます。見る人がイメージを膨らますことで、単に画像だけを見せられた時と比べて全く違う写真に見えるはずです。これがタイトルによって写真が輝きを増す、あるいは写真が生きるということだと思います。

 タイトルをつけることで見る人に与える情報量の増加分は、文字数にして数文字というほんのわずかでしかありません。しかし、そのわずかに増えた情報量によって、見る人が描くイメージは何倍にも何十倍にも、もしかしたら何百倍にもなるわけで、それがタイトルの持つ大きな効果だと思うわけです。

 赤いバラの写真を例にと思いましたが適当なバラの写真がありませんでしたので、タンポポの綿毛の写真を例にしてみます。
 写真展のように、写真が額装されて壁にかけられている状態をイメージしてみました。

 このように写真だけを見せられた場合、まず、タンポポの綿毛ということはすぐにわかると思います。そして、下の方にスギナとかタネツケバナとかが写っているのと、画全体が比較的明るい緑色をしているので、春なんだろうなぁということぐらいはわかるでしょう。しかし、見る人にとって、それ以上にイメージは膨らまないのではないかと思います。

 では、この写真にタイトルをつけてみます。

 一つの例として、ここでは「旅立ちを待つ」というタイトルをつけてみました。

 このタイトルによって、もう間もなくするとタンポポの綿毛が飛んでいくのだろうということが伝わり、見る人はいろいろなイメージを描くことができます。空に舞い上がった綿毛を思い浮かべるかもしれませんし、綿毛がすっかりなくなった後の光景をイメージするかも知れません。それは見る人によって千差万別ですが、タイトルによってイメージが膨らむことは事実だと思います。
 もし、この綿毛をポンポンに見立てて、タイトルを「草むらのポンポン」とすると、全く違ったイメージになると思います。

 このように、写真にタイトルをつけることで、見る人のイメージを膨らませるとともに、写真から何を伝えたいのかをある程度、明確にすることができます。

さらに「キャプション」をつけることで写真の訴求力が高まる

 タイトルをつけただけでも写真の見え方はずいぶん変わってきますが、撮り手の想いをより伝えたい場合はキャプションをつけると効果的だと思います。
 キャプションは、タイトルによって写真を見る人が描くイメージをより大きくしたり、タイトルだけでは伝えきれないことを見る人に伝えることができます。
 その場の情景を説明的に書いたり、撮影した時に自分が感じたことや思ったことを書いたり、内容は自由で構わないと思いますが、あまり長い文章にしない方が良いと思います。長いと読みたくなくなってしまうので、パッと見て書かれている内容が把握できるくらいが効果的ではないかと思います。

 先ほどのタンポポの綿毛の写真にキャプションをつけてみます。

 例えば、「背伸びをして、新天地に向かう風が来るのをじっと待っているようです」というキャプションをつけてみました。

 このキャプションがあることによって、タンポポの綿毛が風に乗って飛んでいくというイメージをより強く描くことができるようになると思います。

 ただし、キャプションは必ずしも必要というわけではなく、見る人がイメージする自由度を大きくしたい場合はタイトルだけにしておいた方が良い場合もあります。見る人がどう感じるかは自由ですから、撮り手の想いをあまり無理強いしないようにすることも大切だと思います。

タイトルをつけることで自分の写真を見直す

 写真を撮るという行為をするということは、対象となる被写体を撮りたくなる何某かの理由があるわけです。風景や花などの場合は、「とにかく綺麗だから」というのが最も明確でわかり易い理由かもしれません。
 そして、綺麗だと感じたその被写体を四角の枠で切り取るわけですが、この時、どこをどのように切り取るかというところに撮り手の作画意図が働くわけです。同じ位置からの撮影であっても、カメラを少し上に振ったときと下に振ったときでは出来上がる写真に大きな違いがあります。

 下の2枚の写真は蕎麦畑の中の石仏を撮ったものですが、2枚とも同じポジションから撮影しています。

 左の写真はカメラを下側に、右の写真はカメラを上側に、それぞれ少しだけ振っています。同じ被写体ですが写真から受ける印象はまったく違います。いずれも主な被写体は石仏と蕎麦畑ですが、左の写真は蕎麦の花に囲まれており安らぐような感じがしますが、右の写真は寂寥感さえ感じます。被写体を見た時にどう感じたか、それをどのように伝えたいかによって撮り方が変わってくるということです。

 また、写真で伝えたいものが最初から明確になっていて撮影する場合もあれば、それほど意識をせずに撮影して、あとから伝えたいものを明確にしていく場合もあります。いずれにしても、自分で撮影した写真を何度も見て、いったい自分はこの写真を通して何を伝えたいのか、ということを自分自身に問うてみることは大切なことだと思います。

 そして、それをタイトルにして写真につけます。タイトルをつけるのが難しいということを良く聞きますが、その理由は大きく2つあると思っていて、一つは、そもそも写真で伝えたいものがはっきりしていないという状態、もう一つは、伝えたいものは明確になっているが、それをタイトルとしてうまく表現できないという理由です。
 後者はイメージを具体的な文字として表現するわけですから、いわばテクニックのようなものであって、これは何とでもなると思っています。問題は前者で、こちらはイメージすらないということですから、タイトル云々以前の問題です。

 撮影の段階で伝えたいことが、もっと言えば、つけるタイトルまでもがある程度イメージできているのが良いのかもしれませんが、魅力的な被写体を前にしたときは撮ることが精いっぱい、ということが多いのも事実です。
 自分で撮った写真をじっくり見直してみるというのも大切なことで、それによって撮影時の作画意図も徐々に明確になっていくものだと思います。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 今回は、タイトルやキャプションが写真に与える効果について触れましたが、次回は、実際にどのような視点でタイトルをつけているかということについて書いてみたいと思います。

(2022年2月15日)

#フレーミング #写真観 #構図 #額装