時どき、長年写真を撮ってきた自分の足跡のようなものを振り返ってみることがあります。初めて自分のカメラを持ったころはフィルムに映像が記録されることが面白くて、とにかく目の前にあるものを手あたり次第に撮っていたという感じで、どのような写真にするかというようなことは全く考えていなかったように思います。
しかし、時が経つにつれ、もう少しいい写真を撮りたいという気持ちが頭をもたげてきて、いろいろと試行錯誤が始まるわけですが、これがなかなか思うようにはいきません。今のように便利なデジタルカメラなんぞはない時代ですから、試したことの結果が出るまでに何日もかかるという状況です。
振り返ってみると、私の写真の歴史はこうしたことの繰り返し、もがいて過ぎた時間のようにも思えます。いまだに思ったような写真が撮れないということは起きるわけで、なぜそうなるのか、自分なりに思いつく原因について綴ってみたいと思います。
なお、この内容はあくまでも自戒も含めた私自身の振り返りであって、世間全般に通用するというわけではありませんので、予めご承知おきください。
【三次元から二次元へ、動から静への変換】
思ったような写真が撮れない理由や原因は一つではなくたくさんあると思うのですが、そもそも、写真というのは三次元の被写体を二次元へ、そして被写体が動いている状態から止まった状態、つまり動から静へ変換されているということが大きな要因であると思っています。
人間は三次元空間を二つの眼で見ているので、当然、立体的にとらえています。また、多くのもの(被写体)は動いている状態であり、立体感に加えて動きを認識しています。
ところが、これが写真になった時点で三次元空間は二次元という平面になり、そして動きはなくなり、ある瞬間の状態、もしくはある時間の軌跡として記録されてしまいます。つまり、写真というのは人間が目で見ているものとは根本的に異なったものであるということです。これが、肉眼で見たときと、そしてそれを撮影した写真を見たときに生じる大きな違いであると思います。
撮影するときは肉眼で見ていますから、三次元、かつ動きがあることで膨大な情報量を取り込んでいるわけですが、これが二次元に、そしてある瞬間の映像になった段階で情報量は大幅に削減されてしまいます。この欠落した情報の分をどう補うか、それを撮影の段階である程度考慮しておかないと、出来上がった写真を見たときにこんなはずではなかったと感じてしまうのだろうと思います。
美しい景色を撮影すればよほどの失敗をしない限り、きれいに写ります。それどころか、実際よりもきれいな色に再現されることもしばしばあります。ですが、美しいとか綺麗というだけで、実際に見た時の感動のようなものは何処にも感じられないという写真になっていることも珍しくありません。その原因はひとつとは限りませんが、やはり情報量の欠落によるところが大きいと思います。
これをどう補うかは被写体やシチュエーションによって千差万別ですが、目の前にある被写体が二次元の静的映像になった状態を頭の中に思い描くことが必要だと常々思っています。これができない状態でむやみにシャッターを切ったときは概ね、つまらない写真になっています。
ちなみに、三次元から二次元になったことで多くの情報が損なわれてしまった例としてわかり易い写真をご紹介します。
これはだいぶ以前のものですが、神社に向かう参道を撮影した写真です。この石畳の参道は上っているようにも見えるし、下っているようにも見えると思います。
実際には手前から奥に向かってかなりの勾配で登坂になっている参道です。左右手前にある杉の木の根元が、その奥にある杉の木の根元よりも高い位置にあるので、下っているようにも見えてしまうのかもしれません。
肉眼で見ているときは決してそんなことはないのですが、写真にするとありがちな現象です。
【何を表現したいかが不明確】
思うような写真が撮れない原因について、次に思うのが何を表現したいのかが不明確なまま撮影しているということです。
写真は目の前にある被写体の限られた範囲を正確に写し取ったものですが、その二次元になった写真を見た人がどう感じるかはまさに千差万別です。美しい風景の写真を見てきれいだと感じる、あるいは可憐な花の写真を見て可愛らしいと感じるというようなことは比較的共通した感情かもしれませんが、それだけだと一過性の写真になってしまい、見た人の記憶や心に残ることはないと思われます。
最近の若い人は「エモい」という表現をよく使っているのを耳にすることがあります。英語の「emotional」を語源とした現代版日本語とでもいった表現だを思いますが、心が揺さぶられるような何とも言えない心持になることを指すようです。感動とか哀愁とか懐かしさとか、言葉ではうまく言い表すことができない感情で、まさにその写真の中に「エモい」と感じさせる何かが存在しているかどうかということで、それがつまらない写真とは一味違ったものにしてくれるのではないかと思っています。
写真を見た人がどう感じるかは千差万別だと書きましたが、当然その中には撮り手(撮影者)も含まれているわけで、撮り手がどう感じて撮ったかということと、それを見た人がどう感じるかということは全く別物です。ですが、撮り手が何ら心に響くものがない状態で撮った写真は見る人の心にも響くものがないのだと思います。
綺麗な風景を綺麗だけで終わらせるのではなく、今の若者の言葉を借りれば、自分が「エモい」と感じたものを写真という二次元の画像にどう表現するかという工夫が必要なんだと思います。
春の桜にしても秋の紅葉にしても日本にはたくさんの風光明媚な景色がありますが、それらを通して伝えたいもの、表現したいものを明確に持つということかもしれません。桜や紅葉を単に美しい風景として終わらせるのではなく、季節の移ろいや自然の営み、生命の力強さや儚さ、あるいは人生への重ね合わせなど、1枚の写真から感じさせるもの、考えさせるものを存在させられるかどうかということかも知れません。
それが同じように見る人に伝わるとは限りませんが、それが存在しているとしていないとでは、ずいぶん違った写真になると思います。
【真似をしようとしてもうまくいかない】
「何を表現したいかが不明確」ということと密接に関係していると思うのが、真似をして撮った写真です。
例えば、ガイドブックとか写真集、近年であればインスタグラム等のSNSなどに掲載された写真を見て、こんな写真が撮りたいと感じることは少なくないと思います。
私が主な被写体としている自然風景でも、人気のスポットに行くと多くの人が同じ場所から撮影している光景を目にすることがよくあります。もちろん、その場所からの眺めがいいちばん美しいのであろうことはうなずけますし、私も右に倣えでそのような場所から撮影したことはあります。ですが、そうして撮った写真は概してつまらないものであることが多く、美しくはあってもそれ以上のものは感じられない写真になっています。
つまり、どんなに美しくても真似だけをした写真には心に訴えるものがほとんどないということです。
真似をすること自体が悪いとは全く思いませんが、真似だけで終わってしまうとそこには独自性(オリジナリティ)も創造性(クリエイティビティ)も存在しません。素晴らしい写真を単に真似するだけでなく、参考にしながら自分なりのものを作っていくべきだと思っています。これまで私も素晴らしい作品の真似をして撮ってきたことがありますが、真似をしてもそこには歴然とした差があり、訴求力の違いを感じさせられてきました。
やはり、自分なりのものを追い求め続けるということでしょうか。
【技術的要素が不足】
写真には精神論だけでは解決できないこともあり、最低限の技術的要素も必要ということは否定すべきことではないと思っています。高度でアカデミックな知識や技術のことではなく、カメラや撮影に関する一通りの技術的なことは知っておくべきだということです。
例えば、写真を撮る人で露出について全く無知という人はまずいないと思われますが、それでも露出に関して保持している知識や技術の度合いによって、写真に仕上げるレパートリーの幅が格段に違うと思います。露出のかけ方ひとつで違った作品に仕上がることは言うまでもありません。
露出に限らず、写真撮影には数々の知識や技術が求められます。構図も然り、フィルター等の使い方も然り、私のようにフィルムを使っているとその特性、また、対象としている被写体に関する知識、屋外屋内を問わず照明に関する知識等々。
もちろん、これらは経験の中で自然に身についてくるものもありますが、知識や技術が乏しいがゆえに表現できなかったという経験も数えきれないくらいしてきました。やはり、正しい知識や技術は大事なことで、正しく学んでおくことが必要だと思っています。
知識や技術に乏しい領域で撮影をしようとすると、うまくいくのだろうかとおたおたとしてしまいがちですが、その裏付けがあると、撮影の際にも何となく自身のようなものが感じられるから不思議です。
【機材による限界】
思うような写真が撮れない理由を機材のせいにするつもりは毛頭ありませんが、機材による限界があるのも事実です。それでも何とか撮りたいのであればそれを実現できる機材を揃えるだけのことで、経済的負担はあるもののハードルの次元がちょっと違う気がしています。
私のように半世紀以上も前の機材を使っていると、どんなに頑張っても撮れないものがたくさんあります。新しい機材を揃えるもよし、今の機材で工夫しながら撮るもよし、それぞれその人なりの考え方や価値観で決めればよいことだと思っていますが、機材がどんどん進化しており、これまで撮れなかったような写真が次々と撮れるようになっている現実を見ると、正直なところとても羨ましく感じることがあります。
古いものにしがみついているばかりでなく、新しいものを取り入れていくことも大事なことなのでしょうね。
【上手な写真とヘタな写真、良い写真と残念な写真】
自分の頭の中で思い描いた写真と実際に出来上がった写真がなぜ違うのか、その理由というか原因について自分なりに感じていることをつらつらと書いてきましたが、では、私はどういう写真を撮りたいと思っているかというと、一言でいうと、それは「良い写真」ということだと思っています。とても抽象的な表現でわかりにくいと思いますが、ここまで書いてきた「思うような写真が撮れない要因」のうち、機材によるものを除いた他の要因をある程度克服できたものが良い写真ではないかと思っています。
つまり、あらかじめ三次元から二次元への変換ができていて、伝えたいことや表現したいことが明確になっていて、全くの真似ではなく独自性があり、ある程度の知識や技術に裏付けされている写真ということでしょうか。
写真をポートフォリオ分析的に分類すると、「上手な写真とヘタな写真」という縦軸、そして「良い写真と残念な写真」という横軸で構成されたマトリクスが考えられます。もちろん、これ以外の軸で構成することもできますが、私はこの切り口が気に入っています。
「上手な写真」というのは露出もばっちりで見事なタイミングで撮影されたもので、技術的な裏付けが感じられる写真とでもいえばよいでしょうか。そして、「ヘタな写真」というのはこれらの逆で、露出やピントが合っていないなど、そもそも写真としては首をかしげたくなるようなものです。
一方、「良い写真」と言いうのは何かを語りかけてくるもの、写真を見た人の心に訴えるものがある写真で、「残念な写真」というのはこれらが存在していない写真ということになります。
いうまでもなく、「上手で、かつ良い写真」というのが理想であり、目指すべきところかもしれません。逆に「ヘタで、しかも残念な写真」からは一刻も早く脱却したいものです。
では、「上手だけれど残念な写真」と、「ヘタだけれど良い写真」とではどちらがより好ましいのかというと、賛否があることを承知で私は「ヘタだけれど良い写真」を選びます。その理由は明快で、写真が語り掛けてくるものがあり、それに対して感じたり考えさせられたりするからです。つまり、写真と対話ができるかできないかということでしょうか。
極端な表現をすれば、牛乳瓶の底で撮った写真でも良い写真は存在するということです。
私が長年に渡って生産してきた駄作は数えきれませんが、そんな中で良い写真を撮りたいという思いは強まっており、撮る前に思い描いた像と仕上がった写真が極力同じになる、そんな写真を撮りたいと思っています。
(2025.8.27)
