「レンズ沼」とか「レンズ沼にはまる」という言葉があります。簡単に言うと、次々とレンズが欲しくなる症候群のようなもので、経験された方も多いのではないかと思います。かくいう私もレンズ沼にどっぷりとはまった経験があります。幸いにも以前よりは抜け出していると思うのですが、岸に這い上がっているかというとそんなことはなく、まだ体半分くらい浸かりながらもがいているといった感じです。
ひと言でレンズ沼と言っても、その大きさや深さ、はまり方は人それぞれのようで、とにかく究極のレンズにたどり着くために次々とレンズを手に入れる人もいれば、コレクターアイテムとしてレンズを集める人もいるでしょう。
私が最もはまった沼は35mm判カメラ用のレンズでした。私は主にコンタックス(CONTAX)のカメラを使っていましたが、そのほかにもペンタックスやライカ、トプコン、コンタレックス、エギザクタなどのカメラがごろごろとしており、それぞれのカメラ用マウントのレンズやM42マウントのレンズなどを数えきれないほど所有していました。
なぜそんなに膨大な量になったかというと、レンズというのはそれぞれ異なった写りをするわけですが、そういったレンズの癖や特性を実際に味わってみたいというのが理由で、それが私の沼へのはまり方でした。
新しいレンズ(ここでいう「新しい」とは新品という意味ではなく、それまで自分が持っていなかったレンズという意味であり、実際に私が手に入れたレンズの多くは中古品です)を手に入れると、いろいろなシチュエーションで撮影を行ない、色乗りやボケ方、収差などをみて、そのレンズの特徴を自分なりに理解するということをします。ですので、その工程が終わるとよほど気に入ったレンズ以外はそれ以降、陽の目を見る機会は極端に減ってしまいます。
使わないのなら手放せば良いのにと思われるかもしれませんが、いったん手にしたレンズには愛着がわき、なかなか手放す気になれません。そのため、レンズは増える一方でした。しかし、数えきれないほどの量で、しかもあまり使うことのないレンズが多いとはいえ、リストアップしろと言われればすべて書き出すことができる状態でした。
そして、被写体(私の場合、風景や花を撮ることが多いのですが)を目にしたとき、あのレンズで撮ればこんな感じに写るんだろうなぁと、頭の中でイメージしていました。今から思うとかなりアブナイ奴だったかも知れません。
ところが今から6年ほど前、35mm判カメラとレンズのほとんどを一気に手放してしまいました。
私は作品作りに使用するのは大判カメラか中判カメラで、35mm判のカメラを使うことはほとんどありません。かつては35mm判でスナップなどもよく撮っていたのですがそれも少なくなり、35mm判カメラを使用する頻度が著しく減ってきたのが手放した理由です。
カメラやレンズに囲まれ、それらを手にするだけで何だか幸せな気持ちになりますが、やはり使ってこそ価値のあるものだというのが私の持論なので、ちゃんと使ってもらえる人のところに行った方が、カメラやレンズたちにとっても幸せだろうと判断した結果です。
何台かは手元に残しておこうとも思いましたが、それとて使わないのであれば同じことなので、思い切って手放してしまいました。
ということで、いま私の手元にある35mm判カメラはコンタックスT2と、2年前に中古カメラ店で衝動買いしたフォクトレンダーのベッサマチックだけです。
T2はお散歩カメラとして使っていますが、ベッサマチックは完全にディスプレイ化しています。
35mm判カメラとレンズを処分したことで、私の撮影用機材の量は1/3以下になりました。
とはいえ、大判カメラ用レンズや中判カメラ用のレンズはまだたくさんありますし、大判レンズに至ってはいまだに微増しています。さすがにかつてのように、レンズの「味」を確認したいがために購入するというようなことはなくなりましたが、時どき、無性にレンズが、特に大判レンズが欲しくなる時があります。
このビョーキのような状態がなぜ起きるのか、自分でもうまく説明できないのですが、やはり、これまでに使ったことのないレンズで撮影をしてみたいという衝動が最も大きな理由ではないかと思います。これはレンズの「味」を確かめたいということと根本は同じかもしれません。
例えば、同じ焦点距離のレンズであれば、ニコンだろうとフジノンだろうと、あるいはシュナイダーであろうとほとんど見分けがつかないくらいの写りをします。厳密に見れば微妙な発色の違いとかボケ方の違いとかはありますが、一枚の写真だけを見せられて、これはどのメーカーの何というレンズで撮ったものかと問われても私には答えられません。半世紀以上も前のレンズで撮影したものであれば明らかに違うのはわかると思いますが、近年に作られたレンズはいずれも拮抗しているという感じです。
そういったことを十分に理解しているにもかかわらず、フジノンのレンズで撮りたい、シュナイダーで撮りたいとか、あるいはローデンシュトックで撮れば...などと不埒なことを考えてしまいます。まるで、違うレンズで撮れば違った写真に仕上がるとでも言いたげです。レンズを変えたところで自分の写真の腕が上がるわけではないことぐらい、十二分にわかっているはずなのにです。
こっちのレンズを使えば素晴らしい写真が撮れるよ、というあま~い悪魔の囁きが聞こえてきて、私の脳を麻痺させてしまうとしか言いようがありません。まさにレンズには魔物が潜んでいるという感じで、麻薬のような恐ろしさがあります。
大判レンズの前玉をのぞき込んだ時の、あの吸い込まれるような神秘的な美しさがそう思わせるのかもしれません。まるでライン川の岩山にたたずむローレライのようです。
35mm判は処分したものの、このように大判レンズの沼からはいまだに抜け切れずにいるわけですが、大判レンズの場合、35mm判のレンズのように数回使ってお蔵入りということはなく、使い続けるところが違っています。
それは、35mm判レンズに比べると大判レンズの本数がずっと少ないのも使い続ける理由の一つかもしれませんが、何と言っても、そのレンズで自分なりに納得のいく写真を撮りたいという気持ちがあるからです。
大判写真は構図決めにしても露出設定にしても、そしてピント合わせにしてもかなりの時間をかけて行ない、やっとシャッターを切るという状態ですから、そうして撮った一枚がイメージと違うものだとテンションが下がり虚しくなるとともに、とても悔しい気持ちになります。ほれぼれとするようなレンズで納得のいかない写真しか撮れないのであれば、レンズに対して申し訳ないという感じです。
そしてもう一つ、時々、大判レンズを購入する理由として、予備のレンズを確保しておきたいということがあります。
大判レンズはほとんどがディスコンになってしまい、徐々に修理もきかなくなりつつあります。最も切実なのはパーツが手に入らなくなることで、そうなると中古品から取るしかないということになります。そのために、比較的程度の良い個体をいくつか持っておく必要があります。これは極めて現実的な問題であり、魔物とは対極にある理由です。
いずれにしても、自分に都合の良い理由を並べているにすぎないようにも思えますが、大判カメラや大判写真に興味がなくならない以上、このような状態が大きく変わるとは思えません。レンズ沼と一言で片づけてしまえば簡単ですが、私にとっては「魅せられた」という方が適切な表現かも知れません。
大判カメラや中判カメラ、そしてそれらのレンズを手放す日はもう少し先になりそうです。
(2022年2月7日)